しょこたん先生にまたしても気づかされる
中川翔子さんの著書『「死ぬんじゃねーぞ!!」いじめられている君はゼッタイ悪くない』を読んだ。
今回は久々に、読書を通して考えたことを個人的な日記だけでなくnoteに書こうと思う。
ご本人の活動からもよく知られているように、彼女は学生時代、いじめの被害にあっている。その経験と、今だからこそ伝えられることを書籍にしたのが本作といえる。
このnoteは人権作文でもなんでもないので、殊更に“いじめはよくない”という話を書き連ねるつもりはない。そもそも自明のことであろう。
本作から特に印象深く感じ取ったのは、大きく分けて二点。
まずひとつめは、「いじめに気づけない」「見て見ぬふりをする」大人になってはいないだろうか、ということ。
僕は幸い、いじめ被害にあっていない。それ故に、アンテナは意識しなければ、もし仮に近くにいる子供がその渦中にあったとしても、見過ごしてしまう可能性は決して低くはない。本作には対談も掲載されているが、やはり大人への不信感が、子どもへ追い打ちをかけるらしい。
それに、ルールにがんじがらめにされた子供が、その憂さ晴らしでいじめを行うという背景も考えられ得るという。
そのルールとは、無論、大人が子供へ強いるものが大半だ。なかには時代錯誤になっているものもあるだろう。そこに意図や意義が見いだせないまま、ルールという一字によって日々をこなすようになると、その子らもまた成人した折には同様に接してゆくのだろう。
さて、もう一つは、好きなことをしっかりと持つ、という部分。
僕自身、幼い頃から趣味が豊富であり、それを揶揄されたことがなかった。それ故に、今日もその趣味を楽しみつつ、こうして執筆や創作を毎週してもいる。
そんな僕も、この頃は新作アニメを全く見ていない現状なのだ。物理的に時間が確保しづらいというのもあるものの、休日は毎週、しっかり映画をネットフリックスで一作ほど見ている。つまり、優先度が下がっている。
その理由はきっとオタクは概ね経験しているだろう。
つまり、自身に多くのシナリオが蓄積されていることで、真新しさや、自分の日々に影響を与えるほどの熱意を感じられないのだ。
ここではあえて具体的な例をあげてみよう。もうすぐアニメが完結する今期作『小市民』。落ち着いた世界観、特殊能力などとは違う、現実世界の延長にある二次元。日常に潜むミステリー。
きっとあと数年、放送が早ければ、僕は欠かさず視聴していたと思われる。嫌な要素がないのだから、簡単なロジックを用いずとも、それすなわち視聴決定の合図であろう。だが、一話を最後に、僕は視聴していない。きっと『小市民』と『氷菓』が同じ作者ということもあって、尚更、僕の中には類似性がネックになったのだろう。
正直、こういう事例は後を絶たない。
とどのつまり、アニメという趣味を愉しめていないのだ。その結果、好きなことを書くnoteの場でも、アニメについて触れる機会は減少し、何を書こうかと思案する日もある。
中川翔子さんは、好きなことをブログにしたことで、オタクとして、タレントとして、そして人間として、ひとつの人格を(自信をもって)打ち出せるようになったという旨が書かれている。
この頃、セルフネグレクトという概念を知った。
ネグレクトというのはいわば虐待のこと。セルフということは、誰かに虐待や育児放棄されているのではなく、自分自身でその状況を生み出すというもの。
つまり、一人暮らしをおこなう中で、いつしかゴミ屋敷にしてしまい、最悪の場合、精神や心身に問題が生じる。こういうケースをセルフネグレクトという。ゴミが溜まったりすると「おやおや、セルフネグレクト、セルフネグレクト」と心の中で唱えたりもするのだが、一方で趣味の熱中度合いがフェードアウトのように減少するのも、精神衛生には思いの外、大きな影響があると思う。
なので、今後僕が気をつけるのも二点。
子供のSOSに気付ける人間になること。
自身の趣味を謳歌する。それによって結果的に、趣味に消極的な人を鼓舞する存在になれること。そのための執筆でもあったのだから。
今回、使用させてもらった表紙絵を選んだ理由は、文字通り、崖っぷちにも安らぎはあるはずだと思ったから。ブラック・ジャックの家もそうだ。たとえボロボロであったにせよ、孤独は孤高にもなる。
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