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ERINNERUNG

 大学でドイツ語をかじってから本格的にドイツという国や文化に興味を持ちだして久しいものの、一度たりともかの地を踏んだことはない。
 生涯で一回くらいは観光したいという気持ちはいかなる国よりも今では強い。僕がシャーロック・ホームズ好き(作家ドイルはイギリス人であり、勿論、舞台もイギリス)であることを鑑みれば、これはかなりの度合いであろう。
 特に昨今では東ドイツに強く惹かれている。
 まるで王朝交代した中国の歴史のように、一夜にしてソ連の衛星国家たる社会主義国へと変貌したその社会の様子は、本を読んでいるだけでは想像しきれないので、「DDR Museum」というドイツにある、東ドイツ博物館の公式Xアカウントをフォローしていたりもする。

 クラシックも、文学も、哲学も。好きな西洋文化の多くがその土地で芳醇なものとして歴史に記されつつ、人々の間で享受され続けてきた。僕も実際に肌で何がしかを感じ取りたい。それは自分探しの旅などではなく、より原義的な意味での“留学”に近いものとなるだろう。
 ところで、ゲーテの詩に『いましめ』という作品があるのをご存知だろうか。僕はつい少し前まで知らなかった。何の気なしに詩集をめくっていると、不意に跳び込んできた数行の詩句。

きみは まだ遠くをさまようつもりなのか
みたまえ 善きものはこんなに近くにある
幸福をつかむことだけを 学びたまえ
幸福は いつもそこにあるのだから

 この詩の原題こそ、『ERINNERUNG』。
 いましめと訳されているが、例えばネットでこの単語を検索すると一番最初に出てくるのは「記憶」だったりする。

 思えば、比較的良い環境があり大切な人がいる今の生活に何ら不足はない。それでも、まだ見ぬ独逸国への期待は揺るがない。「ふらんすへ行きたしと思えども、ふらんすはあまりに遠し」という萩原朔太郎の詩について、以前noteに書いたこともあるけれど、まさしくそんな感覚。

 だからこそ言葉や、自身の専門でもある歴史学的なアプローチで親しみ、学んでいる。それはなるほど実体験には勝らないかもしれないが、決して劣りもしないだろう。
 ちょうどこの頃、『千葉からほどんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話』というエッセイを読み終えた。
 著者もまた、小説や映画、そして言語そのものを通して、物理的制約にとらわれずに、ネットなどを介して活動しているようだ。

 僕も文章を書くことによって、少なくとも日本という国内において、地域に縛られずに、興味のある人がいる限りにおいて自由に読んでもらえるツールと土壌を活用している。それと同じく、ドイツというまだ見ぬ国に対しても、決して交流できない訳ではあるまい。

 個人的な体験として、最後にひとつエピソードを紹介しておく。これは記憶であり、そして自身へのいましめでもある。
 高校の時にきた留学生の一人について。仮にAとしておこう。彼はフレンドリーな性格をしており、積極的に留学先である日本、そして僕らのクラスに馴染もうとしていた。連絡先を交換した日、僕はどういった本を読んでいるのか尋ねてみたことがある。
 彼は『古事記』を外国語で読んでいると言っていた。僕は、「日本人でもその本を読んでいる人は滅多にいない」「凄いね」といった感じの言葉を返すと、彼は驚いていた。

 歴史家トインビーの有名な言葉に、「神話を学ばなくなった民族は例外なく滅んでいる」というものがある。
 イデオロギーは別にして、日本人である以上、日本の神話には一番詳しいと考えるのは当然の論理だろう。
 だが実際はそうではない。
 TVではカルフォルニアロールであったり、サムライやニンジャに扮する外国人が登場することも稀ではない。そういう姿を見ると、実際の“日本”との差異を感じるものの、日本を母国とする者よりも深く理解を示そうとする人が必ず存在しているのも事実だ。その結果としてついに留学の機会を手に入れた、ということもあるだろう。
 ネットフリックスに30分ほどのドキュメンタリー映画『若きユグオの喜びと悩み』がある。僕はユグオと話したいと思うほどにこの映画が気に入っている。
 それというのも、ルーマニア文学に強く惹かれた中国人の高校生が、ついにその熱意を抱いてルーマニアへ留学し、文化の日にはルーマニア語で詩を朗読し、祭典にはルーマニア国旗を片手に参加する。
 
 僕自身、ルーマニア語もかじりだしている。
 きっと、ここではない、文学の地へ行きたい気持ちが、イギリスの他に、ドイツとルーマニアという国家を見出させたのだろう。
 けれども、今ある場所でもまだまだ出来ることはある。その末に訪れた方がどんなにか感動するだろうと、今では考えている。


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