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栞を探して
本のしおりを捨ててしまうタイプの人間だ。
その理由はいくつかあって、まず、暇な時間が多分にある有閑学生なので、薄い本であれば休憩をはさむことなく読み切れてしまう、というのが一つ。どこまで読んだかはしおりがなくてもわかるから、特段はさむ必要性を感じない、というのが二つ。あとなんか本に挟まってるのを発見するならまだしも、特定のしおりなどをちゃんといつも持っておいて随時挟むのがダルい、というのが三つ。
しおり紐がついているタイプの本の場合はありがたく使わせてもらうこともあるが、ともかく以上三つの理由で、わたしは本のしおりを使わないタイプの人間としての人生を歩んできたのだった。
しかし、本を読んでいると、しおりを必要とする場面は時折発生する。それも頻度の差はあれど、必ず全員あるだろう。
それは、もう一度ここ読み返したいな、印象に残っていて未来の自分が読み返したいと思うだろうな、という場面に遭遇した時だ。
一文程度であれば写真に撮っておく、メモに残しておくというのもありだが、やはり紙の質感やフォント、陰影、前後の文を含めてのその一文であるので、読み返したいときに簡単にたどり着けるようにしておきたい。
そして、そう。本題のしおりが絶対に必要となる場面。それは、読み返したい部分が一文どころではなかったときの話だ。今の私が陥っている状況と呼んでも構わない。
ああ、この話もあの話もまた読み返したい、多分未来の自分があの話はどれに収録されてるなんのやつだっけと頭をひねるだろう、というとき。とくに、短編集や雑誌のような、複数篇入っている本を読んでいるときにたびたびこの現象は発生する。
今わたしは文學界九月号のエッセイについてのエッセイを読み進めているのだが、これがもうどれもそれもあれもこれも素敵なエッセイばかりで、あとで栞を探して挟むため、ページに挟んだ指を挟んで読み続けていたのだ。指は減っていくが、しおりを挟むためだけに読書を中断するのもいただけない。そうだろう?
そう思って読み進めていたのだが、挟んだ指が五本を超えたところでわたしは諦めて立ち上がった。片手の指が五本以上あればもう少し先まで読み進められたのだが、いかんせんそんなのは難しい。というか無理だ。普通に。片手の指は五本しかないし。
そんなのは難しいのではさんでおくためのしおりを探すのだが、これがまた見つからない。どこを見渡しても全然ないし、どの本を開いても全然挟まっていない。過去の私はこれらの本についてきたであろう栞をどこにやったのだろうか。全部捨てたのか?本当に?そんなことがあるのか?KADOKAWAなんかは確か、店頭でもらわずとも本に必ず一枚挟まっているはずなのに。
そうであるからわたしはしおり以外のなにかしら挟み込めそうなものを探すのだが、これがまた難しい。一個目はすぐに見つかった。過去のわたしがずぼらにもはさみっぱなしにしておいた売上スリップだ。まずこれを挟み込む。
二つ目、すでに難航している。挟めるものであればしおりでなくたって一向にかまわないのだが、素材にはまあまあこだわりがある。できれば、ノドにあっても本を開く際の妨げにならないくらいの薄い紙がいい。厚紙は駄目だ。ブックマーカーもわたしが本好きだと知っている人々が善意でお土産にくれたりするのだが、これも同様の理由で駄目。特に金属のやつ。デザインは素敵なんだけど、くれた諸氏にはここで謝っておく。
ちなみにこのnoteは学校をさぼって帰ってきたベランダで、PCを使って書いていたのだが、充電切れの憂き目に遭い室内へ戻ってきたところだ。これを読んでいる諸君には電源のないところで文章を書くときは十分に充電しておく、もしくは充電しながら書くことをおすすめする。
部屋を三周ほどしたところでそういえばこの前、KADOKAWAの本を十冊ほど買ったのだったと気付き、本棚に戻ってぺらぺらと捲る。案の定挟んであり、三つが確保出来た。あと一つ。一つとは言ったがこれから現れるであろう素晴らしいエッセイのことを考えると、二つは確保しておきたい。
相も変わらず本のページに指を挟んだままであるのでものをどかしたりはせず、無意味に部屋の中を一周する。右手でできる範囲で引き出しを開けたり物をどかしたりしてみる。しおりを取っておいてある箱があったような気がするのだが、捨ててしまったのだろうか。無いということは捨ててしまったのだろう。アホめ。過去のわたしが変な思い切りの良さを見せなければ、今のわたしがしおりを探して部屋の中を徘徊することにはならなかったのだ。まったく。過去の自分に恨みを向けながらその辺の紙を持ち上げてみれば──あった。埃まみれの紙を持ち上げたせいでハウスダストパーティが突如開かれてしまったが、いい感じのしおりになりうる紙はあった。
しおりではない。しおりではないが、適度な薄さと大きさだ。あった。一枚だけ。
はさんでいた指をどかしてその紙を代わりに挟みこみ、ようやくこれで五指が自由になった。同時に、本が手汗でよれよれになる心配も消え失せる。そして、なぜかこれで満足して、文學界をそのままほったらかしてこのnoteを書いている。
続きを今から読むので、おそらくわたしはまた数十分、もしかすると数分後に部屋を彷徨っているのかもしれない。
使わない栞であっても処分せず取っておくのが吉なようだ。とくに、わたしのように断固として本に付箋を貼りたくない人は。
2023/11/03
これは懺悔ですが、上野の森美術館でモネのPETブックマーカーを買いました。かわいかったから。金属のやつより柔軟性があったし。かわいいは正義だから仕方ないよね。以上です。
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