エッセイ またな
学生の頃の話。一年目の私は寮の近くのラーメン屋でアルバイトをした。バイト先は、代々先輩から受け継がれている何件かのうちの一つ。田舎出身の貧乏学生だ。慣れない都会で、近いし賄い付きというのがうれしくて飛びついた。
一日目の夕方。辞める先輩と、まだ暖簾が出ていない店舗で店主に挨拶をして、引継ぎを受けた。「なんもむずかしくないから」と先輩はざっと説明をしただけで帰ってしまった。そのまま初日の仕事に突入。
改めて間近に見た店主は、40歳代くらいの男性。がたいが大きく、動物的な顔つきだ。
掃除をしようと、ほうきとちり取りを出しているとカウンターに座れと言う。数分で目の前にラーメンが置かれた。載っているのは葱とナルト。鶏ガラだしの醤油味が旨かった。
食べ終えてどんぶりを洗っている時、シンクの横の、茶色に煮しめたような布切れが目に入った。布巾? 桶に水を張ってそれも洗った。水はみるみる茶色になる。醤油や味噌のスープをかなりの量吸い取ったのか。水を換えまた洗う。そばにあった固形石鹸をこすりつけ揉み洗いするとコーヒー牛乳の色になった。
水を換えようと洗い桶を反し、蛇口を開けた時「何やっているんだ」と店主の声。慌てた。「ほかの子はそんなに何回も洗わないぞ」。何度洗ってもきれいにならないので…。ダメだったの? と胸が高鳴る。水がたまり、急いでもう一回すすいだ。まだ澄んでいなかったけれど、絞って布巾掛けに広げた。
初日の帰り際に店主が言う「またな」という一声が合格通知だと聞いていた。言われなければ次は無い。ダメかも、と不安がつのる。
開店すると入れ代わり立ち代わり客が入る。配膳下膳。卓を拭いてどんぶりの洗浄。時間はあっという間に過ぎ、終了。帰り際、店主が顔を上げて「またな」といった。いかつい顔にあったあれは笑顔? 外でガッツポーズ。
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