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長編小説 定食屋「欽」常連(3)

 3月春分の日のランチタイムの少し前、春のコートを来た女性客が、ストールを頭に巻いて深く被り、寒さに震えて入ってきた。後ろから似たような格好の同年代の二人が連なってくる。
「今日は寒いわ。気温はそんなに下がっていないのに風が強くて、身体の温度が奪われるのね」
「また冬のコートを出さなくちゃ駄目だわ」
「小粒の霰が風で顔にあたるのが痛くって、大変だったわよ」
 口々に天候の悪さを言い騒ぐ様子は、春色のコートに似合わない。美代子に空模様を報告してきたストールの客は、コートを脱がずに小上りへ入り「何か温かいものがいいわ」と震えている。
 三人で鍋焼きうどんに話がまとまると、顔を突き合わせるようにして、誰かの噂話を始めた。話に熱が入ってうどんが来ないうちにコートを脱いだ。
 小鍋が食卓に置かれ、三人とも話を少しの間中断した。
 麺が半分ほどなくなるころ、食べる前からの同じ話題で再び盛り上がっていた。
 三人の姦しさは、勘定を済ませて扉を開き、鈴の音と入れ替わりに話し声が消えるまで途切れることがなかった。
 美代子は手を休めずに調理を続けて、やれやれと思う。
 昼になると、次々と寒風に身を縮めるようにして、客が来店した。「寒い」と言って入ってくる客のほとんどが鍋焼きうどんを注文した。
 『欽』のうどんはどんな季節にも評判が良い。具の豚バラの油は身体が温まるし、うどんが冷めるのを遅くする。少し厚切りのゴボウは歯ごたえと味がよく、山盛りのった新鮮な三つ葉と長ネギが湯気に紛れて香る。小さな餅が一個入っており、好きな者は卓の籠に山盛りの生卵を、自由に何個でも入れられる。
 午後二時前、麺が残り少なくなった頃、客足が一段落した。
 美代子は遅い昼食を作った。うどんの汁を小鍋に移し、冷棟の握り飯を入れて温めた。くつくついってきたところへ、生卵を落とし火を止める。長ネギと三つ葉を乗せ、カウンターの内側の調理台の空いているところに置いた。一味唐辛子を振って、蓮華で食べ始めたところへ客が来た。
 悟だった。正月に来た時と同じように片方の頬を真っ赤にしていた。顔を見せるのは正月以来初めてだ。修司は先週、送別会だ、壮行会だ、と言って二回、サークル仲間とやってきていた。
「こんにちは。食事中でしたか。半端な時間にすいません」
 美代子は「近頃の子はすぐ謝る」と言いながら、悟を見上げた。眉間に以前にはなかった影ができて、唇が強く結ばれていた。
「食べてしまうわよ。いい?」
 頷いて悟は『森の子』の石が見えるところへ行った。脱いだ冬コートをハンガーに掛け、美代子に背中を見せたまま暫く立っていた。
「親父と大喧嘩をしてしまいました」
 美代子は悟の声のトーンがいつもと違う気がして、食べかけの小鍋を片付け、悟に定食でいいか尋ねた。
「遅いけどいいですか」
「何とでもなるのが定食屋のいいところよ」
 間もなく醤油の良い匂いがしてきた。大きな食卓の角に腰かけた悟の前に、盆に乗ったレバニラ炒めが旨そうな匂いをさせて置かれた。大盛りのご飯と、鶏肉と春菊と油揚げとかき餅を入れた汁物。箸休めに干しエビの入った酢大豆。香の物はぬか漬けの大根だった。
 腹が空いていたのか、飯茶碗を置く間も惜しんで食べている。糠漬けの最期の一切れを口にしたとき、美代子が香ばしいほうじ茶を淹れた。
 なにか辛いことがあっても、食べられるということは大丈夫ということだ。お腹いっぱいになると気持ちがほぐれる。旨いと思うものを食べるのが、幸せへの一番の近道だと信じている美代子は、食べっぷりを見て安心した。
「時間、ずらして来たのね。客の少ない時をねらって」
「わかりましたか」
「悟君のいつもの作戦でしょう。こんなに風が強くても、冬と違って人は出歩くのね。昼時は混んだのよ。本日の一番人気は鍋焼きうどん。二時過ぎてやっと坐れた」
「すいません」
「また言う」と笑い、美代子は自分にも茶を入れる。
「お客さんに謝ってほしくないわ。若い人って口癖のようにすぐすいませんって言う。取り敢えず言っとくかっていう感じでね。言わない方がまし」
 美代子の厳しい口調に、悟は言葉の代りに頭を下げた。腹がくちくなったからか、来店した時の思いつめた表情が和らいでいた。美代子が盆に食器を片付けるのを手伝う。シンクに残っていた食器をあらかた食器洗い機に入れてスイッチを押すと戻ってきた。
「霰がひどかったのね。まだほっぺたが赤いわよ」
 悟の頬骨のところに五百円玉ほどの発赤ができていた。
「霰と言うか、こっちに向かう間、風向きで小さなガラスくずみたいなのが顔にあたって痛かった。今もピリピリしています」
 頬骨が目立つのは霰のせいばかりではなかった。少し痩せたようだ。美代子は本腰を入れて話を聞こうと、はす向かいに腰掛けた。

 二月、建国記念の日は日曜日で、翌日月曜日は国民の休日だったため、会社は三連休だった。悟は西円山の自宅で居間の模様替えをしていた。以前、修司が部屋の物を持ち込んで、居間で暮らしていると言っていたのを聴いて、自分もそうしようと思ったのだ。
 電気代の節約ばかりでなく、台所やトイレが近いのも楽だし、来客の時や家の電話が入った時にすぐ対応できるからだ。掃除の手間も省ける。
 昨日は、久し振りに居間の大掃除をした。昼を摂りながら、家具の置き場所を紙に書いて練った。厄介なのはベッドだった。解体して下ろすつもりだが、マットレスが大きくて重い。階段を引きずりおろせば何とかなるかとうなずく。午後は本や洋服を下ろし、片付けるだけで終わった。
 今朝は、ワンルームマンションみたいなものだな、と考えながらパソコン机を分解して2階から下ろし組み立てていた。ベランダからの明るい日差しに汗をかいていた。庭に面して机を置き、ソファとローテーブルを移動して机と並べた。
 インターホンが鳴った。カメラに男が逆光で映っていた。誰だろうとそばに寄ってみると父親だった。年末以来、初めて帰宅した、と思って苦笑した。帰宅ではなくて、来宅だ。
「はい。なんですか」
「俺だ。開けてくれ」
 自分の鍵を持っているはずなのに、勝手に入ってこないのは悟に遠慮しているのだろうか。年末は黙って鍵を開けて家に入ってきたのに。
 玄関の内鍵を開けてドアを押すと、健二が庭を眺めていた。悟が車庫前の雪を掻いて積んだ山が庭に出来ている。アジサイもヒバも雪に埋もれて姿が見えない。日差しは強かったが雪が解けるほどではなかった。ドアから入ってくる冷気に汗が引いて、悟は身震いをした。
「庭の木の上に雪を積んだのか。木が折れるぞ」
「捨てるところがないから仕方ないんだ」
「俺はいつも、だるま公園まで雪を運んでいた。母さんは庭いじりが好きだったからな。雪を積むと嫌がった」
 百メートルほど離れたところにある公園のことだ。健二が母の事を口に出したのが意外だった。千春と出会ってから母のことを聴くのは初めてかもしれない。
 悟について健二は居間に入った。テレビが裏返しになっており、ケーブルが何本も丸めて置かれている。ソファテーブルが壁に寄せられて、ソファが横向きになっていた。パソコンデスクは庭に向かって鎮座していた。
「何をやっていたんだ。模様替えか」
「気分転換だよ。それより家の鍵どうしたの。無くしたの?」
 ベランダを向いていたソファが、机の横に置かれているのを見て「この角度だと庭を見るのに不便だな。母さんはこのソファに座って庭を見ながらコーヒーを飲むのが好きだった」
 またしても母のことを言う。悟は不安になった。千春と何かあったのか。健二はベランダから庭を眺めていた。雪に埋もれているが、隣家との境のユキヤナギや、バラ、ナツツバキの根本は雪嵩が丸く下がっていた。
「何か用か。それより家の鍵はどうしたんだよ」
 何かあったのかと聞きたいところだったが、言えなかった。健二の顔が穏やかなこともあり、自分の危惧が疑心暗鬼かもしれないからだった。
「無くした。正月にな。千春の身内に会ったり、いろいろバタバタしていて、ある時無いのに気が付いたんだ。悟の鍵で合鍵作ろうと思って来たんだ」
「子どもみたいだな。自分家の鍵なくすなんて。いや、自分家ではなくなったから、いい加減に扱っていたんだろ」
「そういうわけじゃないよ。無いと何かと不便だしな。頼むよ。すぐに返すから」
 健二の困った顔が腹立たしかった。余計な心配をした自分にも腹を立てていた。
「いらないだろ。鍵なんて。必要なものがあったら根こそぎ持って行ってくれ。もうこの家に出入りして欲しくない」
「悟、そう言うなって」
 なんとか息子の機嫌を取ろうと、なだめるように両手を振る。
「頼むよ。何かあった時困るだろ」
「困らない。何かあったらメールくれればいい」
 健二はソファに座り込んで頭を抱えた。『仕草が見え透いている、下手に出る様が嫌いだ』と悟の怒りは大きくなる。
「母さんが死んだ途端に女を作って、自分から家を出たんだろ。それも母さんとは全然違うタイプの女だ。母さんをどう思っていたんだ。あの女にしてやってるほど母さんに優しくしたことあるのか。俺に頼める筋合か。いい加減にしろよ」
 悟はパソコンデスクの端を両手で持って体を支えていた。手を離すと父親の胸ぐらを掴んでしまいそうだった。
「母さんは怒っていないよ。それなりに幸せだったと思っているよ。自分のしたいこともしていたし」
「幸せか。ああやって飲みに連れていったことあるのか。映画に行くとか旅行するとか、なんかあるか。見たことないぞ。いつも家で働きっぱなしだった。庭いじりや、漬物付けるのが母さんしたいことだって言うのか」
「お前にはわからないんだ」
 いつになく健二は粘っていた。
「三人で二十年以上暮らしていたんだ。俺に解らないことってなんだ」
「夫婦の事さ」
 悟は健二に殴りかかった。二人でソファに倒れた。悟の右の拳が何度も健二の頬や鼻を捉えた。鼻血で滑って拳がそれた。悟はソファから落ちた。
 健二は立ち上がって指で鼻を触った。指に着いた血を見るとそのまま洗面所へ入った。
 悟は床に坐り、拳に着いた血が渇くのを見つめていた。怒りは消え失せていた。俺はこんな短気だったろうか。なぜ手が出た。俺に関係ないことで親父がはぐらかそうとしたから切れたのか。親父は殴られるほどに悪い男だったか。悪いことをしたのか。自問自答が頭の中をぐるぐる回っていた。
 手の背に着いた血を台所で洗い落したが、殴った罪悪感は消えてくれない。燐家の屋根に日が隠れ、部屋が薄暗くなっても健二はトイレから出てこなかった。出てこない時間が長くなると、不安がかき立てられた。
 トイレの前に立ちノックをして「親父」と呼ぶ。少しすると鍵が外され父親が出てきた。鼻と左眼の下と左頬に内出血の痕が出来ていた。悟の顔を見て大きく息を吐いた。
「帰るよ。何かあったらメールするよ」
 悟が何か言う隙もなく、健二は帰って行った。鍵を造らずに。咎めもせずに。

 悟は両手を膝に置き、項垂れていた。無精ひげが耳から顎に繋がって見える。紺色に細かい白のドットが入ったシャツを着ており、首から薄い桜色のハイネックが見えていた。シャツのボタンがちぐはぐになっているのに気付いて教えると、よほど堪えているのか唇をゆがめて笑い、直した。
「部屋の片づけは終わったの」
「何とか。部屋が変わったからか、なんか落ち着かなくて。夜も眠れないことがあります。そんなもんですか」
「春は寝たくなくても眠れるというけれど」
 特に若い時は。美代子は、真面目な青年の、生真面目な悩みがじれったかった。
「修司君が来ていたわよ。先週と先々週に、先輩達とね」
「そのうち会おうと、話はしていたんですけど、親父とのことがあってから、なかなかその気になれなくて。元気でしたか」
「屈託がない若者そのものでした」
 陽はまだ高い。出窓からさす陽射しが明るくなった。風が治まったのか、寒さに身を縮めている通行人がいなくなった。窓の桟の十字の影が床に映る。開店当初は茶色だった無垢の床材は、今は磨きこまれて黒く艶を放っている。
「近いうちに、お父さんたちと呑みにいらっしゃい。誘えばきっと来てくれるわよ」
 悟は美代子の提案に戸惑ったようだが、眉間の影が深くなったのはわずかの間だった。
「そうですね。そうしようかな」
 子供のような素直な物言いが、かえって美代子の身に沁みた。
「それが一番よ。親子なんだもの」

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