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続く小説 続続続ぬかるみ

 しらかば公園が見えてきた。後ろはまだ見ていない。もうすぐアパートだが、家を知られるのはまずいと気付いた。次の信号で部屋と反対側の北へ折れた。人通りが途絶えた。北園小学校のほうへ歩く。そろそろ確かめたい。疲れて来ていた。
 小学校へ突き当たった場所で、おそるおそる後ろを振り向く。街灯は薄暗いが、誰かいれば目に入る。誰もいない。
 今夜は逃げ切った。しかし本当の意味で逃げ切るのはまだ先だ。アイホンを出して小林に電話をした。
「小林。どうした竹村」
「ああ、今日のことなんだけど」
「お前、白石さんに何を借りたんだ。さっき電話があったぞ。貸しがあるのに帰ってしまったと。困った様子で」
 先を越されていた。
「何も借りていない。カレーがうまいと言ったら向こうがかってに」
「カレー食べに行ったんだ。いい感じじゃないか。住所と電話番号教えておいたから、連絡が行くと思う。後はお前に任せる」
「違うんだ。この話はなかったことに...」
 通話は切れていた。なんか小林慌ててたな。住所教えたってことは、アパートの方へ行ってるかもしれないと言うことだ。想定していたが、そんなことで自分を褒められない。
 夜の中で、ネットフェンスの中の学校がより大きくそびえ建って見える。誘導灯の緑の明かりが窓に反射している。そして静まり返っている。風がない、星も見えない、穏やかだが真っ暗な曇り空。遠くで犬の鳴き声がする。ひと気がない通りを戻る。

 まだアパートへ帰るわけにはいかない。美也が引き上げただろうと安心できる時間帯までどこで何をする。女一人で深夜までウロウロしないだろう。
 研一が「後は一人で来た時に」と言ってたな。戻るか。走って来た道に入った。飲食店が多い場所にはまだ土曜の夜の賑わいが残っている。
 歩いていると気が急いてくる。薬膳カレーは後3、4人分で終わりと言ってたから、早くいかないと閉店してしまう。薬膳で体は癒されているはずなのに、実感を持てない。走ったり焦ったりして効果が帳消しになったんだ。
 黙々と歩いていると、いつのまにか研一の店の前に来ていた。まだイルミネーションが瞬いている。ドアを開けた。研一がカウンターを拭いている。
「いらっしゃい。あれ! 健一だ。忘れ物でもしたのか」
「いえ、話の続き聞きに来ました。今後のために」
 研一は何やらニヤニヤした。厨房に入ってダスターを洗い、シンクに広げている間もニヤついたままだ。俺なんか変なこといったか。厨房から出てきてテーブル席を指し、掠れた声で座るように言った。
 研一はとりあえずという感じで竹村の前に座った。大の男が向かい合って座ると変な感じだ。オーナーの頬に張り付いたニヤケは消えている。
「美也の”借り”の話だな。いずれ来るとは思ってたけど、いやに早いなと思っておかしかったんだ。健一を笑ったわけではないよ」
「脅されただけなのか、何かあるのか気になって。”独身はやばい”っていうのも引っ掛かるし。どういう意味ですか。そもそもそっちの研一の借りって何なんですか」
 研一は眉間に皺を寄せて考えあぐねている様子だ。おもむろに立ち上がり「自分用のビールがあるんだ。飲むか」という。
 急にのどの渇きを覚えた。ここでカレーを食べてから何も口にしていないし、そのあとは走ったり、急いだり忙しかった。
「いただきます」
「よしっ。準備するから待っててくれ」
 研一は玄関ドアを開けて何かをした後鍵をかけた。ドア横のスイッチを切るとイルミネーションと窓辺のスタンドランプが消えた。
「店を閉めるんですか。なんか申し訳ない」
「健一だったら、一緒にビール飲む相手がいるのに、あと一食のカレーのために店開けとくか?」
 いわれてみればそうだが、出会ったばかりなのにと済まなさが先にたつ。あれから客が何人か来たということだ。厨房に入った研一がハイネケンの缶を手に戻ってきた。椅子に腰かけ、頭の黒いバンダナを外し缶を開ける。ひげと同じように濃いのだろう、髪は黒くふさふさだった。ビールを持った手を挙げたまま待っている。そうだ、乾杯だ。
「いただきます」
「乾杯」
 うますぎて500mlの缶を半分くらい一気飲みしてしまった。
「俺にとっては、店閉めた後のビールが一番なんだ。今日もうまい」
 二人で同時に缶を置いた。

 美也がこの店に来るようになったのは5年くらい前のことだ。そのころ、店で客とのトラブルがあった、と話し始めた。一人で店にいる夕食の時間帯だ。8割がた食べたカレーに蠅が入っていると若い男が騒ぎだしたという。
 その頃、いちゃもんをつけた客が飲食店から金をとるという事態が、何件か続いているという報道があった。いよいようちにも来たかと、あきらめの境地だった。頭下げて金を渡して引き取ってもらおうと厨房から出ると、カレーを食べていた美也が男の前に立ちはだかっていた。
「お前。この店には蠅なんかいないんだよ。自分で持ち込んだんじゃないの」
「何言ってる、俺が蠅を連れて来たっていうのか」
「そうだよ。じゃなきゃ違うっていう証拠を見せろよ。もしくはその蠅がこの店のものだっていう証拠」
「馬鹿言うな。お前店の女か。客に対してその口のきき方はなんだ」
「馬鹿には一銭も出さないからとっとと帰れ。お代は要らないよ」
「なんだと」
 男は小柄な美也を捕まえようと手を出したが、ひょいとよけられてむこうずねにけりを入れられた。
「くそ。いてえな。警察を呼ぶぞ」
「どうぞ、どうぞ」
 美也は男の腕をひねって後ろへ回した。そのままドアへ押していく。
「また来たらホントに警察呼ぶからね。そこの北署に友達がいるんだ」
 男を放り出して、美也は手の中の物を開いた。男の後ろポケットから抜いた黄色い長財布だった。
「近藤誠也。証拠として没収する」
 男は膝をついた姿勢のまま振り向き、美也へ襲い掛かろうとしたのか、よろよろと立ち上がったが、美也が財布から運転免許証を抜き出したのを見て口をあんぐり開けた。財布は男の前になげ捨てられた。
「免許証返せよ。泥棒だろ。警察へ訴えてやる」
「あんたがほかでも今夜のようなことしているかどうか、被害店舗の防犯カメラの画像と照らし合わせればすぐわかる。この写真があればね。警察沙汰にしたいなら呼べば」
 身に覚えがあったからだろう、男は喚きながら帰っていった。美也に北署の友達に届けるのか聞いたら「そんなの嘘っぱち」だってさ。
 よかったよかったで終わると思ったんだけど、それで終わりではなかった。
 その日、早く締めた店で美也に礼を言った。あの剣幕には驚いたが、腕っぷしは強いし、理屈は合っているし、感謝の気持ちでいっぱいだった。むしろリスペクトしたくらいだ。
 カウンター席に座った美也に、今夜のようにビールを出したんだ。俺も疲れもあって隣に座って飲み始めた。
「そんなに感謝するということは高くつくわよ。返してねその”借り”分」
「”借り”っていうのは、してもらったことへのお返しということか。どう返せばいい?」
 何もわからないで喜んでいたんだ、俺は。
「私と寝るの」
「寝るって、セックスっていうこと?」
「バーカ、そうに決まっているだろ」
「俺、結婚しているんだ」
 仕事柄指輪ははめていなかったからわからなかったのだろう。若い時結婚して、中学生の子供が二人いる。かみさんは、幼稚園の教諭で、とか説明していたら怒り出した。
「何言ってんだよ。セックスなんてただのスポーツなんだから、嫁いようがいまいが関係ない」
 その時、思った。今でも思っているけれど。この人どうやって育ったんだろうって。どんな家庭環境で育ったのか。怖くて直接は聞いていないけどね。俺はとりあえず断らなければ、後々どんなことに巻き込まれるかわからないと考えた。
「セックスはスポーツじゃない。愛を確かめ合う行為なんだ」
 今考えても冷や汗ものの返答をした。間違っているということではなくて、自分の底の浅さがばれる感じ。
 わかる。美也に追い詰められていく工程、実感している。
「心拍あげて汗かいて爽快になる、と言ったらスポーツでしょ。愛確かめ合うなんて本気で思っているの。世界中でたった今セックスしている人が、ぜーんぶ愛確かめ合っているわけ? バカ以上」
 仕方なく降参した。セックスは嫌だったから、助けてもらった礼にうちの薬膳カレー、一生涯無料にするからって提案したんだ。
「売るのが商売のひとから、只で商品は受け取れない。セックスだけでいい。一回におまけしてやるよ」
「妻を裏切れないから無理だ。ほかの何かで頼む」
 こんな話のやり取りが一時間、やっと妥協案が出た。
 厨房に貼ってある営業許可証を見て「名前、研一って書いてある」といった。「一生涯研一って呼び捨てにする」

「そういうことだ。美也はだいぶ年下だけど、それで済むなら安いものだと思った。ほかの客がいようが居まいが呼び捨てだ。雰囲気的に、回りの者は”なんかある”と勘ぐっているかもしれない。なんもなかったからこうなったのに」
 竹村はため息をついた。自分の断る術はなんだろう。急に頭の中に傲慢で、美しくて、筋肉質のインゲルの姿が浮かんできた。パンを踏んで、パンごと沼に沈む姿。しかし今沈んで行っているのは自分自身だった。


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