見出し画像

昭和のショートショート 冬の月

 玄関の引き戸を開けると、寒気が8歳の光子を包んだ。空はどんよりと重く、薄雲のかいまに仄かに月明りが見えている。
 両手で飯釜を持って、裸電球が一個ぶら下がった共同炊事場へ向かう。雪の白さと、炭鉱の六軒長屋の家々から漏れる灯が頼りだった。
 長屋の東の角を過ぎ、用水路をまたぐ橋を越える時、足もとが滑り米粒を浸してある釜の水を少しこぼした。
 左右に伸びる道路を挟んで炊事場があった。一間四方の屋根の下は吹き放しで裸電球がぶら下がっていた。用水路側に横長の流し台が据え付けてあり、片側には鍋釜を置く木の台がある。誰のものか、竹のザルが伏せて置いてある。
 光子は釜のつばを持ち水をそっと排水口へ捨てた。最後には米粒が流れないように釜の縁に慎重に手を添える。
 水を汲むために、手押しポンプのハンドルを握ろうと指を伸ばした。光子の濡れた指先がハンドルに吸われるようにくっついて思わず悲鳴を上げた。冷たいというより痛かったからだ。綿入れの袖口から、セーターの袖を引っ張ってハンドルをつかむ。自分の全体重を掛けて何度か押し下げると、水が勢いよく流れ出て据え付けの桶に溜まった。ひしゃくで水を汲み釜の米を洗う。
 先刻、夕餉の米を研いで伯母の家に戻った時、玄関で従姉の清子に「水が濁っているからもう一度やり直し」といわれて炊事場へ戻ったのだった。
 最初に来たときは、近所の小母さんがいて、暗くても不安はなかった。据え置きの桶にも水がいっぱい入っていた。今は誰もいない。どこからか犬の啼き声と、子どもの笑い声が聴こえる。ご飯の炊ける匂いが漂ってくる。
「お母さん」と呟く。両手の爪の付け根のあかぎれに血が滲む。

 ひと月前に急性胆のう炎で母が市立病院に入院した。学校は冬休みで、父は本州へ出稼ぎに行って不在だった。光子は母方の伯母夫婦の家に預けられた。伯母の家に慣れる間もなく、光子の右手の人差し指と、中指の爪の横が切れた。
 母の姉、松枝伯母さんは優しかった。ご飯のおかずは母の味付けに似ている。布団の匂いも、洗濯物の匂いも家と似ていた。だから最初、不安はなかった。一週間ほどたつと、伯母夫婦の一人娘、中学生の清子が光子の行動を監視するようになり、居心地が変わった。伯母が優しくしてくれるほど、清子は気難しくなった。松枝の姿がない時、清子がそばへ来ると緊張した。毎日朝夕、米を研ぐのを光子の仕事にしたのは清子だった。

 ここへ来て間もない雪の降りしきる日、炭坑で働く伯父が二番方、松枝が町内の会合へ出て二人が不在の夜があった。清子と光子は松枝が用意してくれた夕食を向い合ってとっていた。清子が光子の前に飯茶碗を差し出した。
「お代わり頂戴」
 光子はおひつの蓋を開けて飯を盛った。清子は茶碗を突き返してよこした。
「半分でいいの」
 しゃもじで半分にして清子へ渡した。
「少なすぎる」
 右手でまた茶碗を返してよこす。しゃもじの先に少し載せて茶碗に装う。清子が受け取ったので、少し残った自分の茶碗の飯を一口食べ、お代わりをしようとした。
「タダ飯美味しい?」
 光子は口に入っている飯を飲み込めなくなった。清子は一重の切れ長の眼で光子の口を見詰めている。唾液で水っぽくなった飯をやっとのことで飲み込んだ。
「やましかったら手伝えばいいのよ。毎日、お米でもといだら」
 食後、台所で食器を洗っていると、松枝が帰ってきた。
「お母さん。お帰りなさい」
 清子が迎えに出た。松枝は新聞紙の包みを清子に渡し、角巻に降り積もった雪を外へ振り払った。
「和田さんに焼き芋をもらったよ。ふたりでお食べ。まだ暖かいよ」
 清子は松枝の後ろから横目で光子をにらむ。意味がわかって光子は無理やり笑顔を作って叔母に言った。
「私、お腹いっぱいなので食べられない」
 松枝はあららと笑うと、石炭ストーブの横の物干しに角巻を掛けた。今日の会合で聞いてきた話を清子にし始め、清子はサツマイモをストーブの天板に並べた。二人は、楽しそうに噂話をしている。光子はどこにいたら良いか悩んだ末に、隣の和室へ入り自分の荷物の前に座った。風呂敷の上のたたまれた下着を右へ左へ移し、ランドセルの蓋を開け閉めしながら『明日からお米は私が磨ぎます』と松枝に頼む言い方を考える。二人の笑い声を聞き、香ばしい芋の香りをかいでいた。

 米とぎは、家では母の仕事だった。何度か回を重ね、母はこんなに大変なことを毎日していたのだと思い至ってから、米とぎを辛く思わなくなった。母の手伝いをしているような気持ちになっていた。
 米をとぎ終え、長屋に戻ろうと橋を渡り始めると、来た時と同じところで足が滑って光子は転んだ。手を離れた釜から米が半分以上飛び散った。
 光子は長屋の伯母の家を見、起き上がり、米粒の混じった雪をかき集めた。手先の感覚は間もなく無くなった。米は半分ほど集められただろうか。もう一度炊事場へ戻り、米に混じった雪を解かし、何回か水を流した。
 再び釜を抱え、今度は転ばないように、橋のへりの新雪の上を歩いた。長屋の三軒目の伯母の家に着き、釜を下に置き玄関を開ける。
「みっちゃんかい。遅かったね。今、迎えに行こうと思っていたんだよ」
 松枝が、たたきに出て長靴を履いているところだった。釜を持ち松枝に見せる。
「おばちゃん。ごめんなさい。お米こぼしちゃったの」
「あら。どれ。ああ、大丈夫、こんだけあれば」
 松枝は釜を上がり框に置いた。清子が居間の隅の勉強机でラジオを聴いているのが見える。流れているのはザ・ピーナッツの『情熱の花』だった。
「みっちゃん、アカギレ痛かったでしょ。寝る前にまた馬油塗ってやるからね。米研ぎは明日から、わたしがするから」
「伯母ちゃん、私の仕事なの。やらせて」
 毎晩、松枝に馬油を塗ってもらっていた。朝起きた時、痛みが引いて傷が小さくなった気がしたが、動かし始めるとすぐ切れて元の亀裂より大きくなっていった。
「お母さんの手伝いをしていると思ってやっているんです」
 松枝は光子の頭を抱きしめた。8歳にしては大柄の光子だったから、松枝のふくよかな胸にすっぽり埋まった。
「お母さん、どうしたの」清子の声がした。
「何でもないよ、清子。みっちゃん、炊事場の電気消してきたかい」
「いえ。はなから点いていたから消してこなかった」
 松枝は外へ出ようと、玄関口で光子を抱いたままダンスのように「ララララー」とピーナッツの歌に合わせて入れ替わろうとした。光子は笑いながら「ラララ」ともう一度足踏みで回り叔母から離れる
「私が行きます」
 外へ出た時の光子は笑顔のままだ。外はさっきより明るい。
 空を見上げると、雲の繋ぎ目が切れ、半月が輝いていた。新雪の上のさっき歩いた自分の足跡の上を、慎重に炊事場まで歩き電灯を消した。
 長屋へ戻る道すがら『伯母ちゃんの匂いはお母さんと同じ』と思う。抱きしめられたときの柔らかさもだ。
 月の明かりが光子の影をくっきりと雪の上に映していた。両の掌を振ると影が返事をよこす。万歳もしてみる。影も喜んでいる。飛び上がってみた。光子の影はとっても元気だ。月が顔を出すと、暖かくなるんだと光子は思った。

いいなと思ったら応援しよう!