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第35回 「桐壺」から書いた?

紫式部(香子)は少女時代から『伊勢物語』を熟読していたと思います。『伊勢物語』が完成し、流布したのが960年頃、香子が生まれたのが970年(今井源衛先生説)とすると納得します。ちなみに江戸時代って、その薄さも手伝って、各家庭に『伊勢物語』が置いてあって人々は暗唱するほど読んで、会話の中に入れて楽しんでいたとか。今と違いますね・・・

ある学者が『源氏物語』の中には『伊勢物語』から約300か所が引用されている(よく調べましたね・・・)と言われました。
さて、『伊勢物語』の主人公は、「色好みで美男」の在原業平(名は出していない)です。香子も、夢見る少女の時は「美男」で何でもできるスーパースターを主人公にした物語を書いた事でしょう。

父為時も会った事があるという「源高明」は悲劇の皇子でした。醍醐天皇を父、身分の低い更衣を母とし、7歳で源氏に臣籍降下されました。
しかし能力は優れ、右大臣師輔の庇護を受け左大臣まで昇ったものの無実の罪で大宰府に流されてしまった方です。
『蜻蛉日記』でも高明が流罪になった時の人々の驚き、混乱が描かれています。高明は許されて帰京しますが、香子13歳の982年、69歳で亡くなります。父や伯父をはじめ、周囲の人々の同情を聞き、香子は『源氏の君の物語』(初題?)を書き始めたと思われます。

よく「桐壺」から書き始めたか、いや「須磨」からだと言う人もいますが、瀬戸内寂聴さんらの「桐壺説」が優勢の様です。私もそうかな?と思います(笑)
香子は祖母から、その従兄弟にあたる醍醐天皇、敦慶親王の事を少女の時に聞いた事でしょう。醍醐天皇にはたくさんの女御・更衣たちがいて華やかだった。敦慶親王は「光りの宮」と言われるほど美貌で、また義母にあたる「伊勢」と通じて中務という女の子を産ませた。
『伊勢物語』の初段に「春日野の若紫のすり衣(ごろも) しのぶの乱れかぎり知られず」の歌があります。宝塚でも「しのぶの乱れ」の題で業平を扱っていましたが。
この若紫のイメージを香子は強く持ったのではないでしょうか?
香子は、夫の死後じっくりと執筆活動にうちこむ日々を迎えました。

桐壺―藤壺ー若紫のこの紫のラインはどうやって思いついたのでしょう?
どちらから先か、分かりませんが、天皇の住まう清凉殿から一番遠い桐壺。そこからお召しを受けて来る時、廊下に汚物を撒き散らされて嫌がらせを受ける。桐はちょうど紫。そして桐壺に似た方が藤壺に入る。藤ももちろん紫。そしてその藤壺の姪の若紫を光源氏は妻に迎える。

先ほど出てきた歌人である、宇多上皇の御息所となった「伊勢」の『伊勢集』の冒頭はこうして始まります。
「寛平(かんぴょう)みかどの御時(おほんとき)、大御息所と聞こえる御局に、大和に親ある人さぶらひけり」
何だか『源氏物語』の冒頭を彷彿とさせませんか?

いろいろ試行錯誤を重ねて『源氏物語・桐壺』の冒頭は作成されたのだと思います。
「いづれの御時にか、女御更衣あまたさぶらひ給ひける中に、いとやんごとなき際(きわ)にはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり・・・」(続く)

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