第6回 冷泉院(1)
前述の朱雀院と並んで、『源氏物語』には重要な配役として冷泉院という実在の天皇が使われています。内容的には、主人公・光源氏が義母・藤壺と密通してできた皇子を東宮・そして天皇にまでしてしまう。その皇子が冷泉院という訳で、かなり衝撃的な内容で、醜聞的にも自分の立場だったら使われたくないでしょうね。
ところで、朱雀院は紫式部が生まれたとされる一番早い970年よりも18年前に崩御されています。「過去の人」であった訳です。ところが冷泉院は『源氏物語』が広く公開されたとされる1008年(2008年に『源氏物語千年紀』が行われました)には59歳で生存されていました。その前の執筆段階でも現存していた訳です。(3年後に62歳で崩御されました)いくら物語とはいえ、よくぞ実名で使ったという感じですね。
前にも言いましたが、東映創立50周年記念映画(70周年は『レジェンド&バタフライ』)として『千年の恋 ひかる源氏物語』が2001年に公開され(紫式部が吉永小百合さん、光源氏が天海祐希さん)、やはり忖度して冷泉帝は「玲瓏(れいりゅう)帝」と苦心の命名。なぜか桐壺帝まで「十条帝」とされています。ちなみに今回調べ直して分かったのですが、少年期の頭中将を三浦春馬さんがやっていたんですね。実際に映画館で観たんですが、もう20年以上前なので忘れてしまっていました。
さて、紫式部がどうして「冷泉院」を物語で使おうとしたのか、またそう批判もなく使えたのか、検証してみましょう。
現実の冷泉院は天暦4(950)年5月24日、村上天皇(25歳)の第二皇子として生まれました。憲平親王と名付けられました。母は右大臣師輔(43歳)の娘安子(24歳)。ただその年の初めにすでに第一皇子・広平親王が中納言藤原元方(63歳・南家)の娘・祐(すけ)姫を生母として生まれていました。
憲平親王は第二皇子ながら、生後僅か2ヶ月の7月23日東宮(皇太子)に立てられました。
第一皇子の外祖父として期待していた元方は失望し、ひどく師輔一家を恨んだと言います。
そして憲平親王が成長するにつれ、次第に異常な行動が見られるようになりました。(続く)