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第59回 九条兼実(3)

兼実47歳の1195年8月、娘で期待の後鳥羽帝の中宮任子は皇女を産みます。がっくりする兼実。そして12月にはライバル土御門通親の養女在子が第一皇子を産みます。これに乗じて、日頃高圧的な態度で人望もなくなっていた兼実をは通親を中心とした勢力により翌年11月、関白を罷免されます。いわゆる建久の政変です。
弟の慈円も天台座主を追われ、後継ぎの次男内大臣良経は籠居を命じられます。その他一族がことごとく失脚し兼実は政界を引退し、法然の浄土宗に傾倒していきました。

それから3年後の6月、良経は許されて左大臣に復帰します。これは良経は歌の才能があり(百人一首「きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに 衣(ころも)かたしきひとりかも寝む」)、後鳥羽上皇が「新古今和歌集」を作るに当たり、良経を復活させたのかも知れません。また藤原定家も若い時から良経に仕えていました。

1202年1月、兼実は54歳で法然の受戒のもとに出家します。その年の10月に長年のライバルだった通親が亡くなります。12月に良経は摂政となり九条家復権となってきました。
1204年には良経は太政大臣となり、翌1205年「新古今和歌集」発表の仮名序を書きます。
この1205年というのは仕掛けがあって、905年に「古今和歌集」が発表されているので、ちょうど300年を記してやったのではないかと思われます。
良経は「仮名序」の最後で、「・・・この集は人々の記憶から消える事はなく、年を経てもその輝きは変わらない。この和歌集の完成の場面に会えるものはこれを喜んで、後世の人でこの道を仰ごうと思うものは、和歌集の完成した時代を偲んでくれないだろうか」
と、集ができた喜びと自信、そして後世の我々にまで問いかけています。

しかし絶頂の良経に突然の不幸が襲います。「新古今和歌集」を発表して約1年後の1206年3月7日、良経は38歳で亡くなってしまいます。一説によると夜中に天井から槍で刺されたとも言います。妬みからでしょうか?
兼実は18年前にも長男良通が22歳の若さで突然死するという不幸を経験しています。それも前夜に談笑していたのに。
兼実の嘆きは深く、亡き良経の長男で14歳の道家に希望を見出すしかなくなってしまいました。
翌1207年4月、兼実は道家の舅・西園寺公経(きんつね)に道家の将来を頼んで59歳で亡くなったのでした。-この公経がとんでもない喰わせ者だったのですが・・・それはまた後日。

余談を1つ。兼実は、法然の言う「悪人正機説」-悪人こそが救われるーの説に懐疑的でした。「それではそなたの弟子に悪いことー女犯をさせてみよ」と言って弟子の親鸞に、自分の娘を嫁にしたとかーあくまで俗説ですが。


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