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第74回 一条天皇の病そして譲位時の事件

寛弘8(1011)年になって春先から、一条天皇の体調が思わしくなくなってきました。
「まだ32の御年でいらっしゃるのに・・・」
そういう声の中どんどん容態は悪くなり、5月には完全に寝込んでしまわれました。
香子の父為時は2月に越後守に任じられましたが、主上の様子が心配で待機しておりました。
中宮彰子は、4歳と3歳の若宮を乳母に預け、一条天皇の看病に付きっきりで勤しみました。

しかしもう体調の快復は見込めないとの医師たちの判断と道長の勧めもあって、6月13日、天皇は譲位を承諾しました。
そして新東宮には彰子の産んだ4歳の敦成(あつひら)親王が決定したと道長から奏上がありました。
ここで彰子が珍しく父道長に向かって叫びました。
「私は聞いていませんよ。なぜ敦康ではないのです?主上の希望は第一皇子の敦康である筈。それに私は中宮ですよ。毎日の様に伺候しているのに何故言わなかったのです!」
次第に涙声になり、泣き伏す彰子に、道長は呆気に取られました。

「ずっとまろの言う事を聞いていたのに・・・いつの間にこんな・・・」
そして道長の眼は今度は猜疑の目で、彰子の近くにいる香子に向けられました。
『お前が中宮をこんな風にしたのだな!』

香子はたじろぐばかりでした。確かに、漢文を始めいろいろな学問を教えてきました。正しい考えを彰子は持ったのだと思います。
自分が産んだ子よりも、亡き定子が産んだ敦康をこそ一条天皇は東宮に立てたかったのだと。

しかし一条天皇は「仕方ないであろう。中宮ありがとう」と改めて成長した彰子に喜びました。もう定子と同様、一条天皇にとって彰子は掛け替えのない人になったのです。

この日から道長と香子は完全に他人となりました。かつての蜜月の様な関係は霧消。道長にとって香子は、「余計な知恵をつけすぎた人」となったのです。かつて「彰子に才(ざえ)をつけてほしい」と道長は頼んだのに。(続く)

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