第67回 二度目の皇子出産、和泉式部退場
香子が、「夕顔」などの執筆で忙しい寛弘6年の秋、肥後の国司を終えた藤原保昌(52歳)が帰京、参内してきました。
大の才女好きで、香子にもかつて懸想してきた事があります。(実際に夫宣孝の死後関係を持ったという説もあり)
そして今度は和泉式部に憧れているという噂を聞きました。
「これだわ!」と香子は思いました。
和泉式部を合法的に追い出す方法。保昌と結婚させてしまうのです。
(以下、『源氏物語誕生』より)
香子は道長を誘惑しました。
「これは、これは。紫式部様からお声がかかるとは」
道長は喜びます。そして後で、
「で、和泉式部を追い出して欲しいのじゃな?」
とにやりと笑っていいます。もう道長には見抜かれていました。
「今後とも中宮様に一生懸命お仕えしますから」
「まあ、両雄並び立たず、いや女性であった。月と太陽は並ばぬしのう」
「どちらが月でございますの?」
香子の詰問に、「おお、こわ・・・今度生まれるのが皇子ならば考えましょう」
「できるのですか?」
「まろにできぬ事などございませぬ」
そして11月25日、中宮彰子はまたも皇子を産みました。敦良親王(後の後朱雀天皇)です。
『お約束でございますよ』香子は、道長と会うたびに睨むように見ました。
やがて、道長より和泉式部に命令の様に保昌と結婚する事が勧められ、保昌は大和の国司に任ぜられて12月末には二人して任国へ下っていったのでした。中宮彰子からは短い出仕期間を惜しまれましたが、勘のいい和泉式部には香子の策謀だという事が分かっていました。
和泉式部の娘は、小式部内侍という名で宮中に留まる事になりました。
今から1013年前の寛弘6(1009)年の大晦日を、香子は満足な気持ちで迎えるのでした。
おまけの話
後年、保昌は丹後守に移り、和泉式部も付き従いました。宮中に残った小式部内侍に歌会の話があり、そこへ軽々とした藤原定頼(公任の子。公任も軽々だった)がやって来て、「いつもお母さんに代作して貰ってるのに今回は遠くて困るでしょう?手紙は出しましたか」とからかってくるので、小式部はすかさず、
「大江山 いく野の道は遠ければ まだふみも見ず天の橋立」-大江山を越え、生野を通っていく丹後の道のりは遠いので、まだ天の橋立の地を踏んだこともなく、また母からの文(ふみ)も見ていませんー
と歌枕、縁語、掛詞を駆使した歌を詠み、驚いた定頼は返歌もせず、逃げ帰ったという事です。
その才気ある小式部も25歳頃、産死し、嘆いた和泉式部は千首もの歌を詠んだという事です。
※来年も宜しくお願いします!
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