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第27回 女御元子の悲劇そして香子の結婚

長徳4(998)年が明け、その頃、京では承香殿(じょうきょうでん)の女御元子が懐妊したという話題で持ちきりでした。
18歳の一条天皇にはまだ皇子はありませんでした。母の東三条院詮子は「どなたでも早く皇子を産んでほしい」と願っていました。すでに東宮方では4年前に敦明王(後の小一条院)が生まれていたからです。

前年6月に中宮定子が職の御曹司に復活してからはやはり一条天皇はぞっこん。義子・元子という二人の女御が定子の留守中に入内したもののすっかり遠ざけられ、定子の障りがある時だけお呼びがあるという事態でした。定子の留守中、最初元子は愛されていましたがやはり間遠になっていたのに懐妊したのです。元子の父は左大臣藤原顕光(兼通の長男)。しかし王朝第一の愚人と侮られていました。失態が多かったのです。元子は堀河院へ宿下がりしました。

2月には亡き道兼が叔母であり、一条天皇の乳母であった繁子と通じてできた尊子が15歳で入内してきました。恐らく繁子が乳母である事を利用してせっついたのでしょう。しかし3月に大火があり、尊子のせいだと言われてしまいました。
その間元子は懐妊中なのに一条天皇から手車で召されています。ちょうどかつて花山天皇が寵愛の忯子を召した様に。
5月が産み月だと言われていましたがその兆候がありません。6月、父顕光は妻と元子を伴って広隆寺へ行き、祈ります。
ところが産気づいたのですが、水の様なものがさらさらと出てお腹は小さくなりました。余りに中宮定子が愛されているので、精神不安定になった元子は今でいうなら「想像妊娠」をしたのでしょうか?
しかし人権感覚のない時代。京の人々は「水を産んだ女御」とさんざんに嘲笑しました。更に7月に元子の母盛子内親王が疱瘡に罹患して亡くなったしまいます。顕光はそれも「お前のせいだ」と元子を責め、「そんな事だから愚人と言われるのだ」とまた非難されます。
香子は『源氏物語』で朱雀帝の後継ぎを「承香殿の女御の産んだ皇子を東宮にせよ」と決めます。元子の事が脳裏にあったのでしょうか?

しかしこの疱瘡は7月末、伯父為頼の妻の命を奪います。そして10月にはその為頼も病死します。香子に和歌を教えてくれた恩ある伯父でした。更に九州から、香子の親友であり従姉でもあった小夜姫は女児を儲けていましたが、また流行病で亡くなったという知らせがありました。香子を愛してくれた祖母もこの頃亡くなったでしょうか。

身近な人の相次ぐ死に、うちひしがれた香子は、求婚してくれている宣孝との結婚を受け入れました。香子29歳。宣孝は47歳。当時としては晩婚ですが、宣孝の優しさを香子は知った事でしょう。(最初は)。更に年末、陸奥から香子のもう一人の親友峰姫が父実方と同時に亡くなったという知らせが入って香子は愕然とします。(続く)


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