夜空には、何が”ある”のか
夜空に瞬く無数の星々に、「サソリ」や「オリオン」など、人は自らの関心に応じて、そういった世界を作り上げることができる。しかしながら、例えばウサギは、夜空の星を見上げて、そこにサソリだとか、オリオンだとかを見いだせないのだと思う。少なくとも、言葉を持たないウサギには、夜空にそのような意味や価値を抱くことは難しいだろう。
でも、これは僕ら人間にとっても同じことが言えるのかもしれない。つまり、見出すことのできない意味や価値を含んだ世界が、実はたくさんあるということ。
——人は見たいものしか見ない。
「意味」や「価値」は人の欲望や関心相関的に編み上げられていく。現象学が明らかにしたこの基本的な思考原理は、とても汎用性の高い原理だと思う。意味とは何か、価値とは何か、こういった根源的テーマの本質的洞察可能性を含んでいる。
普段、僕らは意味や価値というものが、この世界に確かに存在しているように感じている。日常的にも「意味がある」とか「価値がある」という言葉を使っているし、意味や価値のない世界を僕らは想像することの方が難しいかもしれない。
実際、瞳に映る世界には、美しさや、味気なさ、切なさや、儚さ、というような意味や価値が宿っていいて、それが日常と呼ばれるようなものだったりする。あるいは、「お金には価値がある」とか、「こうすることには意味がある」と言うよう仕方で、出来事や物には価値や意味があらかじめ存在していると考えている。
とはいえ、意味や価値が「ある」というのは、ボールが「ある」とか、ケーキが「ある」という時の「ある」とは全く異なっている。おそらくそれは、実在としての「ある」と認識としての「ある」という仕方で異なっているんだ。
つまり、ボールやケーキは、実在としての「ある」なのに対して、意味や価値は認識としての「ある」ということ。意味や価値は手のひらにのせて眺めることができるような「ある」ではなく、その都度、認識されていくものだ。
きっと、「薬の効果がある」と言うときの「ある」も、極めて認識に近い。薬の効果って、人によってその感じ方が様々だから。