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三行一体

急啓

許せない、許すことができない。

 暴挙だ、暴虐だ、あまりにも乱暴だ。

 何がって、た行に決まっている。

 一体、日本人の何割がそのことに想いを馳せた経験を持つのだろうか。「たちつてと」の五音を「た行」と一括りにすることの暴力性について。

 昔から言葉や言語には敏感だったと思う。他の人にこの話をしてもどうでも良いと一蹴されるかもしれない。今日の話はそういう話だ。

 つまるところ、た行というのは所詮
「たてぃとぅてと」
「ちゃちちゅちぇちょ」
「つぁつぃつつぇつぉ」
の三行の都合のいいところを組み合わせているだけの寄せ集めだ。15音のキメラだ。「t」「ch」「ts」の三つの行から選りすぐりを複合したものに過ぎない。いわば三行一体である。

 なのに、日本人は「たちつてと」をチームとすることに何の疑問も持たない。おかしい。そもそも「た」の次が「てぃ」ではなく「ち」であることに違和感を覚えないのか?どう考えても「た」は「てぃ」の前であるし、「ち」は「ちゃ」の次だ。「ちゃ」の次に「てぃ」を配置したら誰もがその違和感に戸惑うはずだ。それなのに「ち」は当たり前のように「た」の後ろに並んでいやがるし、その後ろには「とぅ」でも「ちゅ」でもなく「つ」が我が物顔で並んでいる。私はその不一致に、絶妙に合わないパズルのピースを無理矢理嵌めたような強引さを感じてしまう。

 本当はそこに15人の仲間がいるはずなのに、矢面に立つのは、人々に愛されるのはそのうち5人だけ。私は英語の流入により現代では当たり前のように多用される「とぅ」や「つぇ」にもスポットライトを当ててやりたい。全員に幸せになって欲しい。60音あってもいいじゃないか。この際「ゐ」や「ゑ」も呼んでさ、みんなで久々に酒でも飲もうや。

そう思わないか?

草々不一

追伸
この文章を書いたのは半年ほど前なのですが、今考えると日本語をアルファベットに当てはめてしまっている時点でなんというか、あまりに英語中心的で違和感がありますね。

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