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え?変わってる、よね?
頬が赤いだか黒いだか、馬皮の黒いウエスタンブーツの匂いなのか、担いできた羊革の絨毯のそれなのか、あるいはスーツケースの中で液漏れをした名前のわからない酒瓶からなのか、とにかくウッと鼻が曲がりそうな匂いを纏って現れた母に、おかえりよりもまず先に、
「とにかく風呂へ入ってきて」
と言った。
モンゴル帰りの母に。
うちの母は変わっているのだと、うすうすは気がついていたけれど、彼女が子宮筋腫を患い、子宮の全摘出手術のため1ヶ月半休業したその期間、退院して数日後、
「私、リ・ポーさんたちとモンゴルへ行く」
と言い出したことで、それは確信に変わった。
やっぱこの人相当変わってるわ…、と。
リ・ポーさんとの出会いからお話しよう。
ある朝、朝刊に「馬頭琴奏者リ・ポーさん、小学校で演奏会」という記事を見つけ、当時PTAの母親委員をしていた母は「これだ!」と思ったのだという。みんなが知っている国語の「スーホの白い馬」に出てくるあの馬頭琴という楽器の演奏を、
「子どもたちにぜひ、生で、聴かせてあげたい!」
と。
こんな機会はめったにない!という信念から母は、新聞社を通じてリ・ポーさん率いるキャラバン隊とコンタクトを取り、そして、私たちの学校の体育館で「馬頭琴コンサート~スーホの白い馬~」の開催は、実現されるに至ったのだった。
その出会いから、母は彼らと友達になり、近くでイベントがあれば出かけていくようになった。
どういうコミュニケーション能力か知らないが、興味のある人とはとことん仲良くなってしまう母は、すっかり彼らに気に入られ、友達になり、とうとう彼らの帰国に合わせて「わが祖国モンゴルへご招待します」とお誘いを受けたのだという。
「こんな機会めったにない!」
と、声高に宣言したかどうかは知らないけれど(私は当時まだ中一くらいで事の経緯はフワッとか知らない)、母の入院中に証明された家族の家事力をガッツリと当てにして、これまた一週間、母は勢いのまま、数名の日本人仲間とともに、本当にモンゴルの旅へ行ってしまったのだった。
そうして冒頭、すこぶるワイルドになった獣臭を纏った母が無事帰宅した、というわけだ。
内モンゴル自治区というところの、リ・ポーさん宅におじゃました話は、もう「世界ふしぎ発見」のレポーターなみで、馬で移動したとか、トイレがないから草原でみんなから遠く離れてしたとか、ヤギの乳だとか、強い強いお酒だとか、とても濃い旅をしてきたようだった。スーパーヒトシくんもビックリなエピソードは、絨毯で。
「まだ裏打ちされてない品(未完成品だけれど完成するとバカ高い品)だけど、お母さん、一目惚れしちゃってさ!でも、発送するとすごい時間かかるって言うから、「いい!担いで帰る!」って言って担いで帰ってきた」
のだとか。日本から一緒に行った仲間からは、
「悪いけど他人のフリするから」
と、冗談とも本気ともとれることを言われ、本当に離れて歩かれた、と笑っていた。
「いい絨毯なのにね、ほら、見てよ。」
「…うん。」
彼女の人生観がそれを機に変わったのか、あるいは、もともとそうだったのかはわからないけれど(私は後者だと思ってやまないが)、彼女のアグレッシブさが増し増しになったのはその頃からだった気がする。
男女共同参画の講演会を聴きにいった先で、主催者と仲良くなり(ここでも謎のコミュ力を発揮したのだと思う)、幾度もイベントへ参加後、帰宅したある日、
「今日からわが家は、共同生活とします!」
と、「脱・母親 脱・主婦業宣言」ともとれる宣言をした。要は、それまで母のやってきた「当たり前」を、家族みんなで分担して、基本的には自分のことは自分でする、という方針でいくという。いわゆるシェアハウスというわけだ。
(いやいや、今までだって結構自分のことは自分でやれって感じだったよ?と、思春期な私はブツブツと思いながら)男女共同参画とは何ぞや、これからの男女の目指すところは…!とかを家族へ(主に父へ)熱く語っていた時期もあった。
はたまた、どういう出会いかは忘れたけれど、姉妹都市交流で来日していた中国人たちと仲良くなり、中国語を教えてもらいながら中国の家庭料理を一緒に作るのだ、と見知らぬ中国人が家にきて、大量の水餃子を生地から作っていた日があった。異国の匂いの立ち込める台所で、器によそわれた水餃子を訝しみながら食べたけれど、その後しばらく餃子自体が食べられなくなるくらい苦手な食感と味だった…。(その後私が普通に焼き餃子を食べられるようになったのは、子どもが産まれてからくらい。今では餃子はめっちゃ好き。)
彼女が50歳にさしかかるころ、いろいろと思うことがあって考えていたようなのだけれど、
「東京の原宿の絵付学校へ通いたい!」
と、また突飛なことを言いだした。
もうそのころには家族も、言い出したら聞かないし、熱量が半端ないことはわかっていたから、片道新幹線を使って4時間の日帰りを月一で、学校の五年間過程を無事終了するまで、できる限りサポートした。(その五年間の間に、私たち三姉妹が結婚、初孫が生まれるというタイミングだったにも関わらず。さすがにお教室の朝、新幹線に乗ったあと姉が産気づいたのには、お教室の先生に「そんな状況なら早く帰ってあげなさい」と諭されとんぼ返りをしてきたのだったけれど。)
そんな母だから、ご近所ゴシップでつながる田舎のコミュニティの中では浮いていて、ともすれば
「ちょっと、アンタ、何様のつもり!?」
と、面と向かって「よめごのすることじゃない」と手厳しく言われることもあったのだとか。
が、当の本人は、中途半端な気持ちでやっているわけではない、というのが前提にあるのか、
「なにがダメなの?」
と、その人からの言われようが、ちっとも理解できていないようだっだ。
本当、変わってる。田舎のしがらみに、飄々と、しがらまれない人なのだ。
「おはよー」
と今朝、9時ごろ大きめの音量のラジオがついた工房へ出勤していくと、ショートカットに天然パーマで、ターメリックイエローのニットに、老眼鏡をずらして
「あ、おはよー」
と、半年ぶりにおもむろに筆を持つ母がいた。
「どう?描いてみてるんだけど。」
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相変わらず唐突で、でもなんら本人的には違和感もなく当然な顔をして、けど、もうこれが彼女のデフォルトだから。
「おぉ!いいじゃん! ってか、指太!」
「ホントね~」
と、まるで他人事みたいに笑いながら、パレットの絵の具をせわしなく筆でとく。
「ねぇ、おかーさん。おかーさんって、変わってるよねってよく言われるでしょ?」
と、今さら聞いてみても
「え?そう?おかーさん、自分のこと、よくわかんない。そんなこと、あんまり考えたことない。」
なんだそうだ。
え?
変わってる、よね?
私がおかしいの?
母の担いで帰った羊革絨毯はその後、床の間のある完全和室の畳の上に十何年敷かれた後、ダニだらけになって孫たちが刺され、強制撤去となったのでありました、とさ。