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誰かの声が侮辱されることについて
今の日本は、集団の中の不均等な関係で起きた暴力に対して声をあげことでさらに深く傷つけられることが起きています。それは侮辱を受けた人であることを晒され、不利な立場に追い込まれることでもあり、社会的な立場や役割、自分の信念や正義、心身の健康、将来を奪われ続けてしまうことだと思います。このような被害は、男性から女性への性的暴行だけでなく、男性から男性への性的暴行も声があげられます。
そして、その被害は声があげられないだけで少なくないと思われます。性的暴行は、境界を侵襲される感覚が強く、身体・記憶・情動・意識・人格などの安全な境界を失い性別に関係なくその人から多くのものを奪ってしまう行為だと思います。また、暴力に抗えなかった自分自身への無力感、大切なものを奪われた怒りと恥、周りの反応における被害の矮小化と罪悪感、暴力による被害を無視するような応答や当事者という扱われ方による傷つきなど、暴力を体験した人は、被害の体験からずっと傷が無防備に晒され続けているのだと思います。
こうしたニュースを目にしたり、耳にしたりするたびに傷つけられた人が更に傷つけられる社会とは一体何なのだろうと思ってしまいます。こんな安全でない社会に私たちは住んでいるのか、だとしたら私たちの社会における正義とは何だろうかと考えてしまいます。暴力に対して被害を訴えることは当然のことのはずだけれど、私たちの社会はそれを当然としないところが少なからずあったように思われます。「仕方がないよね」「よくある話だよ」「みんな我慢してるから」「みんなが通る道だよ」「後々面倒だから」「角が立つから」などの悪意がある訳ではなく、むしろ励まそう、気遣おうとして、使われているこうした日常での言葉が被害を矮小化していたり、利害関係や面倒にしたくない気持ちから被害を無かったことにしていたりします。
もちろん、社会の中で生きていくには、自分が所属していたり、生活の中で関わる人々への世間体というものがあるのもわかります。そして、そこに利害関係が生まれるのも事実です。また、社会で流布している言説や周囲からの評価が個人に影響しているのも事実です。しかし、だからといって暴力が許される訳ではありません。性的暴行を訴えた時に、その訴えが認められるかどうかという正義の問題があるように思います。ここでいう正義は善悪というよりも、誰かの訴えに正直に応答できるのかという正義ではないでしょうか。どうして被害を訴えた人が奪われ続けたり、繰り返し侮辱されなければいけないのか、どうしてそのような不正が許されるのでしょうか。誰かの暴力の訴えが無視される社会は、他の誰かが声をあげることを難しくしたり、声があげられない人の存在を認めない社会になってしまいます。
なにより、声をあげる人は、自分の境界を暴力により壊され、周囲からの扱われ方で傷つき、さらに声をあげることで傷を晒される、という何重にも奪われ続ける苦しみの中にいるのではないでしょうか。その声を無視したり矮小化することなく、その声を素直に認め受けとめ実直に応答できる社会は、被害を被った人に対する誠実な態度と、起きた出来事に対する公正な判断によって、ひとりの人間の生や存在、これまでの人生や大切にしてきたものを守る正義といえると思います。性的暴行は、ひとりの人間の精神・心・肉体・感覚・記憶・関係・立場・役割・繋がりなどを奪うことです。それが見逃され、誰かの身勝手な支配欲を満たす為に、それに関わる関係者の利害関係を保つ為に、暴力に対する訴えの声が侮辱されることがあっていいのでしょうか。どうしてを暴力によって搾取された人が震えながら、涙を流しながら訴えてきた声が侮辱されなければならないのでしょうか。私は以下の三つを問いを考えたいです。
1. 正義が求められるのは、事件に関わる当事者ではなく、傍観者や社会の側なのかもしれない。そして、暴力に対する不可能的な赦しの審級を持つのが傷つけらた本人のみだとしたら、証言のような暴力に対する訴えを受け取り、その訴えをする他者を迎え入れる傍観者や社会はどのように応答することができるのか?
2. 自分だけが安全で影響を受けない立場から、一方的に相手を観察し影響を与えられると考えてしまうのはどうしてだろうか。あるいは自らがされたように、他者にも振る舞ってしまうのはなぜだろうか。そのような考えからはどのような言葉や態度が生まれるのか。そこに声が消されること、眼差しが遮られること、つまり身体や存在の問題が関係していないだろうか?
3. 過去の社会的な価値づけが、現在の社会的な営みに作用・反作用の影響を与えているのなら、その価値づけの衝突や分断、それぞれの体験した時代や立場の違いの中で、どのように応答し合い、どのような対話ができるのか。その際に、定位により限定された注意ではなく、無条件の関心を受け取りや迎え入れという歓待の作法としてどのように向けられるのか?
以上。