硯と書き初め/2022-1-2
元日と二日とでは,どこか空気感が違うように感じる。
年末から元日にかけては祝いの空気感だが,二日になると突如焦燥感に襲われる。
この感覚は私だけなのだろうか。
そんな焦燥感を感じながらも,まだまだ正月には変わりがない。その感覚を誤魔化すためにも何か正月らしいことをしたい。
そうして,今日は硯に向かっていた。
和歌を詠む
私は,たまに和歌を詠むことがある。
和歌といっても長歌なども詠むわけではなく,大半が短歌のみだ。
それでも,言葉の響きが好きでよく和歌と称している。
詠むかどうかにはムラがあり,習慣的に行なっていることではない。
だが,私の趣味の一つであることに変わりはない。
ここ3-4年ほどは毎年正月になると和歌を詠んでいる。
そのため,毎年の恒例行事となっているが,書き留めた紙をいつも無くしてしまう。
昨年,春頃に書道の道具をしまっている箱が壊れたため,百円ショップで少し頑丈な段ボール製の小さな箱を買い,書いた書もそこに仕舞い込んでいる。
なので,今年はこの短期間のタイムカプセルのような書道箱に書いた作品をしまっておこうと思う。
硯に向いて
毎年正月に和歌を詠むと,私はそれを書き初めがわりにしようと,揮毫する。
半紙に筆を滑らせ,最後に雅号を書き,印を押す。
今思えば,私が好き好んで揮毫するなど小中学生の私は予想だにしなかっただろう。
書写も書道も苦手で,筆を折りたくなったことが何度あっただろうか。
そんな私が何を血迷ったか,高校の芸術選択ではで書道を選択した。
今まで,ただ手本に向かっていた小中と比べ,様々な書体で文字を書けたことが大変楽しかった。
太筆で,はっきりとした字を大きく書く事はいまだに苦手だ。
だが,仮名書道や,石碑に刻まれた漢文を細い筆で書く事は楽しかった。
そのため,私にとっての書き初めは,やはり自らが詠んだ和歌を仮名書道として揮毫することだ。
墨を磨り,書を揮毫すると,不思議と焦燥感は薄れていく。
その感覚はなくなりはしないが,硯に墨が擦れる音,筆が紙に擦れる音とともに,かすかに薄れてゆく。
今思えば,この硯は保育園の時から使っている。
まだ書道を楽しめていた頃に使っていた硯で,書を楽しめるようになっているとは。
なんとも,感慨深いものがある。
あら玉の年を迎うる初春の,はたちの年にせいじを纏ふ
元旦にせいじの衣纏しは,はたちの年の旭を望む