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組織風土は個性の総和???

最近、人事系を中心に仕事をする友人から「どの本読んでも、組織風土は個性の総和って書いてあるんだけどほんとかな。」という意味の問いが飛んできた。

咄嗟に、「組織課題は恐れの総和って言えなくもないかもだけど、、、」などと反応し、問いを投げてくださった友人やその仲間からは、いいフィードバックもいただいたのだが、実は、結構、この話奥深いなと思い、noteに書いてみることにした。

まず、国民文化や組織文化といった領域に多少関わっている立場としてはお恥ずかしいのだけれど、ここ久しく組織風土という言葉を使ってこなくなっていたので、組織風土と文化って違うんだっけ??という素朴な問いが、、

慌ててググってみると、
組織文化は経営者が目標達成のために持つ価値観とか規則でそれを浸透させるもの、組織風土は従業員が組織に対して感じる雰囲気や人間関係で長年にわたって自然に根付いたものみたいな定義が検索トップにならんでいる。

字面だけで解釈すると、組織文化はより意図的で線形的でトップダウン、組織風土は意図してないのになんだか自然に長年かかってできあがっちゃった複雑系のシステムでボトムアップということか。
もしこの解釈が正しいとすると、私の組織文化に対する理解は、どちらかと言えば上記でいう組織風土に近い。だが、従業員だけではなく経営層も含む組織全体のシステムから出来上がっているのが組織文化だと考えている。組織のありたい姿を阻むのは、組織文化の現状がそこに向かうために機能するシステムになっていないからだとして、組織全体の変容に伴走させていただくのが組織文化を扱う場合の仕事の仕方だ。
そんな扱い方が日常だと、文化と風土を分ける考え方には、
経営者と被雇用者間のダイナミクスは扱われないのかしらん?
両者ひっくるめて組織のシステムができているのに?
なんていうはてなマークがたくさん湧き上がって脳内でぐるぐるしてくる。
まあ、別所には、組織風土が価値観や行動様式を含むという説明もあったので、きっと組織文化や風土にはいろいろな立場の考え方があるのだろう。そもそも検索エンジントップにあがったいくつかの文言に対する私の解釈が浅薄なのだろうとも思うので、一旦傍に置くことにしよう。

つぎに、「組織風土は個の総和」と言う話だが、これも思い返せば、高校時代の哲学系の話が大好きな先生が、「集団は個の総和なのか、個の総和を越えるものなのか、それとも別物なのかは、大きな問題なんだ。」とおっしゃっていたのを突然思い出した。その時、なんの脈絡もなく、へえ、おもしろそ、と咄嗟に思ったことまで蘇ってきた。ほんと、不思議だが、私が仕事を通じて学び探求してきたことは、すっかり忘れてたけど、この問いの探求にもなっていたわけだ。

で、やっと本題だが、「組織課題は恐れの総和と言えなくもないかもけど、、、」という私の反応は、あえて個人という言葉をはずしてはいるが、正確ではない。だから、いえなくもないかも、、、なんていう曖昧な表現になってしまう。
組織がありたい姿に向かうのを止めてしまっている何かが組織の課題として現れるわけだが、その課題に紐づいたさまざまを丁寧に解いた先に現れるのは、確かに大抵その組織が持つ恐れだ。じゃあ、それがその組織構成員の一人ひとりが持っている恐れの総和かというとそんなことはない。
実に、その組織の外では普通にできるのに、組織の中に入ると途端にそうならない、なんてことさえ起きる。なぜなら、それはその個人が持っている恐れではなく、組織がシステム的に持っている恐れだったりするからだというのが、システムアウェアネスの見方だ。
とある組織で、社長は自社のこれまでとは全く違うやり方と戦略で創造的に仕事を繰り出す部門を応援すべくあの手この手で声をかけるが、現場はなかなか動かないどころか、社長が声をかけてから疲弊して成果が落ちてしまった。この社長は普段人の話もよく聞ける人なのだが、なぜかこの部署とはうまくいかない。伴奏していくうちに、背後に業界の順位争いのプレッシャーがあって、このままでは追い抜かれてしまうという恐れと焦りがこの部署に負荷をかけてしまったことがわかった。
一見社長の恐れか?とも見えるけれど、この方が経営陣でなければここまでの恐れは持たなかったかもしれない。また、この恐れが現場に見える形で表現された瞬間、現場はその恐れが社長の関わりの有無に関わらずそこはかとなく現場にも渦巻いていたものだったと理解した。そして、社長の思っていた方法とは別だけれど、自分たちらしい方法で、業績を伸ばし始めたのだ。
一人ひとりが普段から恐れを抱いていたというわけでもないが、社長が役割として抱えたかもしれないけれど個人としてどうだったかはよくわからないような、でも、顕在化してみればその会社のシステムの中に確かに組み込まれていたとみんなが気がつくような恐れを私個人は「集合的な恐れ」と呼ぶ。「総和」という発想は、そもそも線形思考で、私がここで行ったような複雑系で事象を捉える場合は、非線形で思考を進めるので、高校の先生の問いに答えるなら、私の答えは「集団は個人の総和とは別物」だ。
だが、個人というフレームを外せばシステムの恐れとしてその転換点に現れてくるものは、線形思考的発想から見れば、総和と表現すれば少しは合点がいくものなのかもしれない。

もし、組織風土を含めた集団が個性の総和だったらどうなるんだろう。私自身は、一人ひとりを大事にしようとしすぎて機能していない組織や部署と覆う出会ってきている。そんな時は、むしろ、組織のありたい姿がもつ枠組みの中で、一人ひとりの内側でさえ多様な個性のどこをその組織に活かし、どこを他所で生かすかによりそうことで組織が活性化するのに手応えを感じる日々だ。個性がほんとうに総和したらそもそも組織は成立しないのではないだろうか。

実は、冒頭の問いを投げてくれた友人は、邦題「すべては1人から始まる」(英治出版)の著者でもあるトム・ニクソンさんとの勉強会を終えたタイミングで、そこでおきたもやもやを、原書読んだ仲間でもある私と話したくなってくれたらしい。トムの原書”Work with Source”には、邦訳にはないけれど以下のようなことが書かれている。

(When we think of small or large groups realising a vision together, we naturally begin to think about organisations. Working with source gives us a different perspective on how we think about organisations by loosening our grip on the Western notion that organisations are separate entities, things in their own right.)
Getting too attached to this idea can pull our attention away from the underlying creative process of realising a vision and leads to problems such as the watering down of a vision, the avoidance of responsibility, forcing rather than collaborating, and the emergence of power struggles.
(規模の大小に関わらずグループでビジョンを一緒に実現しようとするとき、私たちは当たり前に組織について考え始めます。ソースと協働する(Working with source)ことで、組織は独立した存在で、それ自体が物であるという西洋的な考え方のグリップを緩めることができ、組織についてどう考えるかについて異なる視点を与えてくれます。)
この考え方に固執しすぎると、ビジョンを実現する根本的な創造的プロセスから注意を引き離すことになり、ビジョンの水増し、責任の回避、協力ではなく強制、権力闘争の発生といった問題を引き起こすことになります。
        (訳はdeeplによるものをちょっとだけ著者がアレンジ)

"Work with Source" P21 by Tom Nixon

私がこの本に出会う前から体験していたことは、ここでいう「ビジョンの水増し」にあたる。トムやその師匠でありソース原理の提唱者でもあるピーター・カーニックさんとは、ずいぶん直接話す機会もいただいているが、組織に固執しすぎることの弊害として語られると、少し日本のみなさんには馴染みにくいのかもしれない。
しかし、それを傍においても、個性を総和しようとしたら否応なくビジョンが水増しされて薄まったり、ありたい姿から遠かったり、本当ならまだ存続する意義があったのに崩壊してしまったりというのは、よくあることだと実感できる。

というわけで、私はやはり組織風土は個性の総和説には、どうにも合点がいかない派だが、いくつか総和説の方々の書いたものを読ませていただくと、どうも人事制度などを扱う領域の方々に多い言説のようにみえる。個々の人々のことを考える視点からだと個性の総和的な肌感と繋がるのかもしれないと思うと、ちょっとだけわかるような気もした。
実際、この総和を起点に、様々に試行錯誤されてよりよい組織風土の醸成に腐心されていたり、"個性の総和を越える"という視点でドラッガー氏や学習する組織を理解しようとする文脈のサイトもあった。

一方、タレントマネジメントなどの領域では、サーベイやアセスメントの数値や合計でとっても線形的に人の個性を測り、人もモノ化して、商品マーケティングみたいな感じで人の個性や強みを扱う潮流も人事領域に入っていっているそうです。集団は個性の総和、組織風土は個性の総和という線形思考の前提は、我が意を得たりとばかり闊歩するんだろう。
私自身は人繋がりで仕事をすることが多いので、きっとそういう組織とは接点を持てずにきたようだ。

組織開発領域にかかわって15年余り、最近は、しっかりと自分と組織をみつめ、真摯にトランジションに向けて取り組む組織が増えてきて、やっぱり社会は草の根でも、人が人として関われる組織が多くなってきなあ〜などどひとりごちていたら、一方で人の機械化も究極に進んでいるのだと知り、改めて二極化に直面させられ、自分の集団分極ぶりに愕然とした次第。

組織風土と組織文化を切り分け、人の個性を組織に役立つかどうかの視点で線形な数値で切り取って、複雑系を直線的に切り取って。
本来有機的な生態系の一部として人間はあるはずなのに、こんなに切り刻まれなければならないのはどうしてなのか。
確かに既存の資本主義経済の中で効率よく成果を上げるための生き残り戦略としては、どんどん人だろうがなんだろうがモノ化するという方向に行かざるを得ないのかもしれない。
しかし、身体を壊して命が危うくなる人、心を病んで自死まで考える人。本来の命を危険にさらして生き残り、、は流石に行き過ぎだろう。
組織にばかり目を向けすぎると陥るというソース原理からの警告は、立ち止まって耳を傾ける価値があるかもしれない。

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