<身体性と精神性の時代へ1> コロナ禍の今:これまでとこれからのシステムの狭間で
2020年が明けて、9ヶ月あまり。
組織や社会の課題に向き合うことを生業にしている私は、前々から、う〜ん、今の人たちって、頭で考えることに偏りすぎてしまっていて、少なくとも思考・こころ・身体を3つに分断しちゃってるよなあと思いながら世の中を見てきた。
経済資本偏重の社会システムだってそうだ。人が持っている資本て、お金だけじゃなくて、こころでつながる人間関係のシステムとか、生き物として身体がつながっているはずの自然システムだってあるだろう。
民主主義って、本来は誰もが輝けるような国を目指して国民の一人一人が自分も幸せ、みんなも幸せな全体となっていく国のシステムってなんだろうって考えることなんじゃないかと思うし、資本主義だって背後に関係性や自然のリソースを担保しながら、一人一人が自分を振り返りって自由競争の中でお互いを切磋琢磨しながら高め合い、世界を循環するお金がどんなふうに動いたら世界の全体が誰一人落とすことなく最適化するんだろうというところを目標にしたら、いろいろあっても毎日が充実するのになと思う。
民主主義が産声を上げたフランス革命のころの当事者たちは、きっと身体の奥底からエネルギーを迸らせて、きらきらしながらそんなことを思い描いてたにちがいないだろうと妄想してみると、民主主義+資本主義が当たり前の時代に生まれた私たちにとってのそれらは、’頭だけ’のものになってしまってるんじゃないかしらと考えてしまう。
みんなが幸せを目指すはずの’頭だけ‘民主主義は戦争を正当化するし、それを前提にした’頭だけ’資本主義はライバル国の個性を踏み潰しても自分の国が経済大国No.1になって世界を牽引すれば安心だなんて考える。よくわからない成長原理で動くマクロ経済によって世界でも自国でも起きている格差と分断の当事者を見ているようで見ていない。それらは埋まるどころかそろそろこわれやしない?と思うほど拡がり続けているというのに。
そんなことを思いながら迎えたこのコロナ騒動。東日本大震災で被災地にちょっとだけ関わらせてもらって、結局吹き出る問題って前々から地方ー都市分断に起因するだけじゃなくて、被災地に限らず日本中だよねと痛感していたので、’被災地’が世界規模な今回、世界中で向き合う問題は何かなと思って眺めてみた。もちろん、「経済vs.コロナ」でしょ、なんだが、会社を辞めたくても辞められない人たちが口を揃える「辞めたら食べてけないです、、、」を思い起こすと、「社会的な死vs.肉体的な死」という生存の恐怖の摩訶不思議な二項対立にも見える。論理思考偏重が生み出した社会的死の幻想は、とうとう私たちの命まで真っ二つにしてしまったみたいだ。
東日本大震災の時だってこの問題はあったので、驚くというよりは、ついにそこに世界で向き合う時がきたのねとしか思わなかったけれど(ちなみに、世界では国レベルでみんなで考えようよ!という集まりがないわけではないようだけれど、現時点ではどれもうまく進んでいないようだ。)、一つ新しかったのは、問題が世界共通だったこともあって各国の違いが分かりやすかったことだ。少し学んだ国民文化の視点も入れてみると、ニュースに流れる各国の対応が、そのお国柄を実によく反映しているというのがよく見えてきた。
強制力を発動する国が多い中、要請という形でしか対応できなかった日本政府に批判は多いし支持率も一時さがったけれど、その文化特性を思うととても日本らしいと思ってしまった。(どんな文化特性?は長〜くなって本題を外れるのでまたどこかで。)
わお!この前どこぞの研究所がオンラインでやってるテストをやってみたらリベラルって出た私にもこんなことがあるなんて!
そうか。これだけ国民性が政治に反映しているとしたら、政治の在り方を創りだしているのはやっぱり国民の集合的な意識なんだなと思う。(もちろんこれは日本に限らない。アメリカもイギリスもヨーロッパもアジアその他も、そして失敗と批判を浴びてるけど個人的には一番共感するスウェーデンも!だ。)そして、やっぱり特に今は「恐れ」が政治を創ってるから右傾化するんだなと実感してしまった。
東日本大震災の時は、課題を地方視点から見ることもあって、問題を政府の在り方に置きながら関わったのだけれど、こうして見ると、ほんとうに向き合うべきはそこではなくて、私たちの恐れだし私自身の恐れなのだ。しまった!偉そうなこと言ってるけど、頭でものを考えていて自分の身体の奥に恐れを押し込めているのは私自身なんだ。さんざん周りに言ってるのにできてないのは私自身。やれやれ、情けない、、、とほほ。
まあ、嘆いてばかりいても仕方ないので、少し内省しながら自分をみつめてみることにした。
深層心理屋の端くれの私は、自覚することなく身体の奥底に潜む無意識に追いやって、意識がそれをないことにした要素がダダ漏れて行動や言動に現れるのを多く見てきている。そんな目で今の民主主義+資本主義セットを考えると、行き過ぎ論理思考で無意識に追いやった生存本能が、反応レベルで巻き起こす競争がダダ漏れしてるんじゃないのか?と見えてしまう。
そこで介入を試みるとすれば、まずは無意識化している本能の恐れを、私にももちろんあるし、みんなありますよねと気づいてもらうことから始める。そして、美しい民主主義と資本主義の実現した姿と本能の狭間に起きる葛藤を創造的な緊張と捉えて一緒に内省を深めていくと、ある瞬間にこれまで考えもつかなかったような創造的なアイディアがボン!と立ち上がってきたりする。こうなると、それまで死んだような目をしていた人たちが、さっき妄想してみたフランス革命の時の当事者達みたいに、全身からエネルギー溢れさせて輝き始める。それはもう命の輝きとしか表現できないようなもので、結構集中して気がつけばくたくたの私にまで循環し始めるほどだ。
コロナの最中、ここぞとばかり勢力拡大に躍起になる中国とアメリカの関係は経済レベルではすでに戦争状態だという人もいる。文字通り生存本能が持つ恐れが社会的な死を肉体的な死といっしょくたして起こしている事態だと思う。恐れが臨界点に達すれば、あおり運転で逮捕されてしまった人みたいにブチ切れて自暴自棄に核戦争ってことだってないわけじゃない。そうなれば、今や原爆なんて赤ちゃんレベルの進化を遂げてるに違いない核兵器は、全世界を一瞬にして吹き飛ばすかもしれない。
私たちは、さすがに生存の恐怖と向き合いながら、人類が自然の摂理として与えられた思考、こころ、身体の知性を持ってそれを乗り越えていかなければならない時迎えているんじゃないのかしら?
実にこの課題はかつて人類が一度も乗り越えてられなかったテーマでもある。論理思考は時間を基軸に過去の体験から解を導くが、体験がないので通用しない前人未踏の領域だ。おそらく、そこに領域に私たちを導く鍵はおそらく、私たち自身が問題を自分ごととして、思考だけでなく精神性と身体性が持つ論理とはまた一味ちがった知性を内省力で紡いでお互いに高め合っていくこと以外にないのでははないかと思っている。
おいおい、それはいいけど私の恐れと向き合う話はどこへ行ったのだ?
その話はこれからである。私はこんな話を、自分の手法に興味を持ってくれる人以外にほとんど発信していない。まあ、理由は、精神性とか身体性とか安易にいうと論理思考優勢の人たちに、怪しい宗教か?と思われるリスクがあるからだ。これまで、まだレディネスがない人に話しても入り口で逃げ出されるのはお互いに不幸だと思っていたので、特にそのことに問題を感じていなかった。
しかし!今回、さらに自分を見つめてみて、自分の内側にある「自分は怪しい存在である」と認めることへの恐れは、実に幼少期から抱えては解離させることを繰り返してきた今生のテーマでもあることを改めて思いだした。これを機会に少し勇気を出して行動してみよう。それが、ドキドキしながらNOTEに登録して、右も左もわからないながら、このはじめての投稿を書いた理由である。
私はどうしても論理性より直感性が高い傾向を持っていて、直感的でないと文章が乗らないタイプなので、それも怪しさを助長するのではないかと恐れる部分がある。なんとか論理思考に則ってなんて最初は思ってみたのだけれど、冗長になるばかりで少しも面白くならない。というわけで直感全開なところもあって、中には読んでみたけどよくわからないという方がおいでなるかもしれない。少し書き続けながら修練を積もうと思うので、暫し猶予をいただければありがたい。
さて、次回は、この「怪しさ」について少し書いてみたいと思う。
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