二重構造の時代〜2025年という現代
年明けに「2025年を迎えて〜脳内百花繚乱」という記事を書いてからしはらく、書いてみたいことはいろいろあれど、どうにもnoteに収めるには拡散しすぎるきらいがあって、注意欠陥障害な自分を嘆くことしかりだった。
が、落ち着いてちょっと俯瞰的に湧いてくる雑念たちをいろいろ巡り歩いてみると、暮れの友人との酔っ払い対話の中で盛り上がった、
「現代現代っていうけれどまだ人類は近代だよね!」
がやっぱりヒントになるなあと思うようになる。
そこで、その友人とも更なる対話の機会ももらいながら、自分史を中心にこんな思いに至るまでと今について、さらにつらつらと思考探索を重ねてみることにした。
散々盛り上がっておきながら、改めてこうぶちあげてみて自分の中から聞こえてくるのは、「何言ってんの?普通に日本史じゃ第二次世界大戦後、世界史じゃ第一次世界大戦を終えるころから現代って学校でも習うじゃない!」という声だ。
そう、戦後生まれの私が聞く両親始め戦前を知る人の物語に触れる中で響いてくる帝国主義から民主主義への変化の息吹や、リアルにテレビ洗濯機冷蔵庫といういわゆる家電の三種の神器が我が家に揃い始める私の幼年時代を思い出すと、両親がワクワクしながら喜ぶ姿に、新しい時代がやってきているのだという世間の雰囲気を全身に浴びていたように思う。
世界のことをそんなに知っているわけではないけれど、学校で、第一次世界大戦の反省に立って国際連盟ができ、第二次世界大戦の反省に立って国際連合に形を替えた世界の姿を学んだ時は、現代という時代のグローバル化に対処していこうとする人類の努力みたいなものを、幼年期に浴びた新しい時代の雰囲気に重ねて理解はできた。
一方、「私」を主語に話すとまわりがドン引きして去っていくような体験からこの国に生きづらさを感じていた自分にとっては、日本はどこか明治の国体みたいな体制を下敷きにしてると体感的に感じるところがあって、この国の在り方は似非民主主義だし、まだまだ現代になんてなっていないとも思っていた。
そんな日々の中でプロセスワークという手法と出会って、アメリカと日本を行き来するようになると、市民参加が大原則の民主主義というしくみは「個」の自立と深く関わっていることが体感的に理解できるようになった。今になってみれば、まだまだ浅かったと思うが、当時は、日本の民主主義が似非なのは個が立たないからで、個がたつのを妨げているのが水面下で下敷きになってる明治国体という日本の近代性なんだと思うようになった。
並行して、私は自分の力不足でプロセスワークだけではカバーしきれない部分を補うべく、さまざまな手法や思想越境の末、現在の形をシステムアウェアネスという名で展開するようになり、一旦その概念が安定したのは、2017年ごろだと思う。(2018年チェンジ・エージェント社の小田さんにインタビューしてもらった記事があるので、興味のある方はご参照ください。https://www.change-agent.jp/news/archives/001103.html)
同時期にへールト・ホフステード氏の国民文化の六次元モデルを学んで日本の特性がアジアの中でも類似パターンがない良くも悪くも”変”な文化であることを知った。
うわ、これを日本人は知っているのか?それを活かす時も手放す時もあるだろうが知らないまま”失われた30年”とか言ってる場合じゃないぞ。
というわけで、いろいろ試行錯誤した結果、日本的多神教文化と深く結びついた日本的多神教文化に言われる「ものごとが現象化する始まりに存在する”中空構造”」をシステムアウェアネスの世界観に取り入れて、世界を見てみるとこれがなかなか面白い。
まず、日本では、本来あらゆる可能性が詰まっていて全きもののはずの空がからっぽになっているという言説があるが、これは日本に限ったことではないなというのがこの視点から見た感覚だ。ローマ・カトリック圏文化は、中空手前で個人ぎゅっと閉じて中空は天にあげて一神教の神様が担う。東洋や権威主義を受け入れてる集団主義文化の多くの国は中空の真ん中に長老たりうる人間を置いて、中空の扱いはその人に集約させてことが多い。そして、天之御”中”主神からの創世神話にあるように、真ん中にあるのは八百万の神たちのいる自然みたいな場として口を開けているのが日本だ。
システムアウェアネスは、中空を含め存在の源(無意識を含むこころの全体の中心)から自分の自我(意識の中心)、そして日々を生きる自分までを自分ごととして探求することを推奨する。この視点から見ると、源泉や中空を神や長老に他者として依存していたり、過去の経験から意識化された自我のためにそれらを利用したりするなら、やはり人の中空はからっぽなのだ。
一般な世界的には第一次世界大戦後から現代、日本的には大第二次世界大戦後という区切りは、あるからこそいろいろなものが見えてくるし、間違っているということは思わない。
けれど、近代に抱えていた課題を乗り越えて現代があるかと言われるとそうでもないと思う。
冒頭に述べたように、日本は民主主義国になったのだけれど、その内実には明治国体とか鎖国的な雰囲気が漂っていて、そこで守ろうとしているのは日本文化の源泉みたいなものであろうこともわかるが、その源を世界に対して開いて未来に向かおうとするところまでは行かれていないと言う意味では、自我的には近代にとどまっている部分があるように思う。
グローバル化に合わせて世界平和を願う国際連合の源泉は崇高なものだし、うまく機能しなかった国際連盟の反省を乗り越えようとしているのも伝わるけれど、常任理事国は結局第二次世界大戦の戦勝国だし、常任理事国間でも分断を起こしながら、西洋文化的論理主導で世界を牽引しようとする姿勢はやはり自我的で限界を迎えているようにもみえる。
私は民主主義も資本主義も好きだけれど、いつのまにかこの二つが分かち難く結びついて、持てるものが世界を支配し、支配できて世界が思い通りになれば、自分は安泰なのだ!みたいな暴力的な論理が美しい理念の下で渦巻いている。
大きな戦争によって目覚めた世界は確かにあって、帝国主義は終わり新しい国家や社会主義の思想などが形成され、国際秩序は再構築され、経済は成長し、ものが豊かになり、数字の上での貧困層は減ってきたけど格差は拡大した。テクノロジーは目覚ましい速さで進化し、人を凌駕するのではないかと恐れられるほどになった。インターネットの発達も相まって国際的な視点は不可欠になったと言われたけれど、現実には核の脅しと経済力で世界警察として暴力性を傍に抱えながらも世界平和の理想を牽引しようとしたアメリカは、突如、アメリカ・ファースト!と叫んで、この立場を降りる宣言をする。
オバマ政権が終わってトランプ氏が最初に当選した時、現代って近代の課題を克服するんだもんね〜と言ってそうしてきたつもりの、いわゆる意識高い系の人たちが見ていた現実の下で、自分ファーストが達成できないでもやもやしているし、複雑系のシステムの話なんて興味もない人たちの声をこんなにも世界は、そして私は聞いてこなかったのかと思った。
世界は今になって分断したわけでも、トランプ氏が分断させたわけでもない。扱われない間に進んだ分断が臨界点に達しただけだ。
独裁はだめで民主主義がいいのだというけれど、実はみんな〇〇ファーストで独裁したい気持ちをないことにしてませんか?
こうしてみると、2度の大戦の後から始まるという枠組みの現代というフレームは、眼に見えるわかりやすいところ、つまり自我意識では確かに近代を抜けていろんなことが便利になったりついていけないくらいさまざまなテクノロジーが生まれたりしている。その一方で、人類がこれまで触ってこなかったけれど、ここにきて向き合わないとならない課題がいっぱい顕在化してくる二重構造の時代なんじゃないだろうかと思う。
ChatGPTにたすけてもらって先史時代から現代までをざっとみて意識の発達みたいな視点で眺めると、どうもこれまでの人類は、「自我」に焦点を置いてきたようにみえる。もちろん、その視点で研究されてきた歴史だからそう見えるのだろうけれど、学校なんかで習った上での私たちの歴史理解は自我的だ。
自我の発達は私たちが日々を生きる上で重要な要素で、蔑ろにするとよかれと思ってすることが自他境界を越えて、他者に侵入し時にそれは暴力的になる。
だが、自我だけで世界を見ようとすると、そこには限界があって、気が付かないうちに自我肥大を起こして暴走する。自我が心の全体の中心である自己との動的平衡の中でアウェアネスを広げることが、システムアウェアネスの推奨するところだが、そんなつもりでも自我が存在の根源に立ちかえることをうっかり忘れてしまうと、本来別の個人に属しているはずのエネルギーも搾取して他者を無力化し、世界を自分が生きやすいければいい世界にしようとしてしまう。
今回のChatGPTのお答えから導いてもらった洞察がめずらしく腑に落ちたので、次に「文明」を主語に、なんで変化を受け入れないのかしらと聞いてみたら、紆余曲折の末にホメオスタシスが働くからだという答えを出してきた。
いや、ホメオスタシスは確かに重要だ。自然は一瞬たりとも止まることなく変化するけれど、ある程度までは恒常性を担保する中での変化だし、私たちの自我もその中で一定の安定を担保できる。
だけど、ある日人工林の山や道路で水と空気の流れが滞った山が崩れるように、自然は必要な時には、ホメオスタシスによる安定を崩して、次なるバランスへと向かう。人の自我は確かに安定を求めるし、知っている世界の中でできる限り知恵を使おうとするのだけれど、ホメオスタシスが崩れているのに時に無理を通しても知っている世界だけで押し通そうとすると全体に歪みができてしまうのだ。世界がびっくりするような出来事は、山が崩れて新たなバランスを模索するのに似ているように思える。
2025年という現代は、現代がもつ素晴らしい意識の発展と、近代に持ち上がってきた乗り越えるべき課題の二重性を統合していく途上にあるのではないだろうか。気候変動はホメオスタシスの崩壊と次なるバランスへのサインのひとつだろうし、世界の右傾化やこれまでの民主主義で保とうとしていた安定がくずれる中で、自我が暴走すれば、第三次世界大戦という土砂崩れが起きる可能性だってある。
旧年中は民主主義は不安定だという言説もいくつか聞いた。民主主義は、民衆が主権を持つということに端を発する政治体制だったり思想だったり制度だったりするのだと思うが、民衆一人一人が主権を持つとは今日のように多様な世界の中では、極めて難しいチャレンジだ。ダイバシティインクルージョンだけじゃなくて、そこにエクイティとはなんであるのかを含んでいこうとする大切さが叫ばれ始めているのも、その一環だと思う。そう、民主主義はいつだって探求し新たなバランスを模索する試みでもあるのだから、不安定なのは当たり前だというのが私の感覚だ。
胸を張って名実共に「現代」と言える未来を目指して、統合にむけた意識的な試みを始めてみるのに、2025年を使ってみたいと思う昨今である。