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ポップな想像力 『ジャン・コクトー映画祭』 3作品の感想
今回は昔の映画を取り上げます。
ジャン・コクトーの没後60年、回顧上映。
全作初見です。日にちの都合上、『オルフェ』は見に行けなかったよ……。
美女と野獣
『美女と野獣』はずっと、エマ・ワトソンが出演している2017年版のイメージでした。
ディズニーは児童文学を映画化することが多いですが、往々にして原作に存在する毒(児童文学には割と残酷なものが多い)が抜かれ、万人向けに調整されたものが多い印象です。
私は『美女と野獣』の原作を知らないのですが、コクトーの『美女と野獣』はディズニーとは趣向の異なるものだと分かります。
子供向けでありながら、一人の鋭敏な芸術家の美学が結集したアート映画としても楽しめる稀有な作品になっています。
野獣が住む邸は、絵画のような美しい陰影の中にあり、ゴシックホラーもかくやという雰囲気を醸し出します。
それ故に野獣のビジュアルが背景にスッとなじみ、幻想的な空間を作り出します。
映画にとって翳の空間が果たす役割の大きさを改めて感じる。
映画というフィクションを形作るのに、翳さえあればそれで十分なのだ。
ブローニュの森の貴婦人たち
これだけはブレッソンが監督した映画で、コクトーはセリフの監修のみに留まる。
セリフについては、その華美で流麗なタッチが高く評価されています。
とはいえセリフの大部分は、原作である『運命論者ジャックとその主人』から持ってきたものが多く、コクトー自身もブレッソンから頼まれたから、友達として手伝っただけだそうです。
なので私は、コクトーの映画というよりブレッソンの映画として見に行きました。
今の時代からすると何がすごいのかわからないというのは、昔の映画を観る時あるあるですが、『ブローニュの森の貴婦人たち』もその例外ではないようです。
バザンは、ワイパーの音やガラスのコップが砕ける音などが、みえみえなセットや文語調のセリフに対して、生々しい存在感を持っていることが、映画の中にアンバランスな緊張を生んでいるのだと指摘する。
この映画のすごい部分があるとすれば、キャラの説明を省略し、いまいちピンとこない悩みや葛藤を扱っているにもかかわらず、不思議と満足できてしまうことだろう。
ブレッソンの演出が、キャラクターからわざとらしさを剥ぎ取って、ふとした瞬間リアルに思わせる、ただならなさ。
美しいセリフはただの飾りになり、飾りの下にある心理を読み取ることで、この映画の奥行きと繊細さを感じ取れるものと思う。
詩人の血
シュルレアリスム映画、『アンダルシアの犬』と同時期に製作された、コクトーのデビュー長編。
メリヤスの映画みたいなトリック撮影が駆使された作品で、現実とは隔絶したよくわからない異空間が面白かったです。
コクトーは名前しか知らない芸術家でしたが、存外好感の持てる親しみやすい人物に思えました。
ちょっと映画を見ただけでは判断できませんが、斜に構えた感じがせず、ド直球のアート映画だったのが痛快でした。こんなアイデア面白いだろう?という遊び心をビシバシ感じる。
アンドレ・バザンの『映画とは何か』を読むと、ヌーヴェルヴァーグ以前の映画、サイレントからトーキーへの時代に作られた黎明期の映画には、演劇や文学といったハイカルチャーとの折衝や、映画でしか表現できないことの探求が大きなテーマとしてあって、コクトーの映画にも、そういったチャレンジの跡が歴然と存在する。
古い映画は断片的にしか鑑賞できていないので、映画というものの全体像を描き出すにはまだまだ何かが足りない。
今回の映画祭は古典映画を鑑賞する貴重な機会だったので、非常に興味深く体験しました。