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謎の短歌会・軽巡 ”かとり派” の歴史 (月刊惟宗ユキ10月)
古本屋で300円でなんとなく買った『思い出のネイビーブルー―私の海軍生活記―』。そこから意外と面白いお話が出てきました。軽巡洋艦香取の士官室で繰り広げられた抱腹絶倒の短歌会。しかし、それも束の間の日常生活でしかなく…。そして”かとり派”の大宗匠はあの人の孫だった…?。
「1冊 300円」の本から
古本屋に行ったら、とりあえず何か1冊は買っておくことにしている。
狭い店内を荷物をもってグルグル廻って、楽しくと背表紙を見させてもらったのだから、別に欲しい本が無かった時でも、せめてお礼と思って安売りカートの2、300円の本ぐらいは買って出る。
もちろん後々考えてみると特に興味のない新書なんかを買ってしまうこともあるのだが、まぁいつか興味のある人にあげればいい。
今回はそんな「入場料」のつもりで買った本の話をしてみる。
本の題名は『思い出のネイビーブルー―私の海軍生活記―』。だいたいの内容はタイトルから察しがつくだろう。旧日本海軍大尉の思い出話集である。
詳しい人向けに著者・松永市郎さんの経歴を書いておくと、海軍兵学校68期卒、陸奥、榛名、古鷹、那珂、名取に乗艦の後、岩国航空基地通信長として終戦を迎えたとのこと。あまり教科書に出てくるような最前線には駆り出されずに済んだようだ。
よくある元軍人の思い出話本だろう。昭和40〜50年代にはこういうのがめっちゃ出てるな。300円均一棚から覗かせる背表紙だけでは別段興味も持たなかった。
けれど、パラパラっとめくっていると「短歌”かとり派”の歴史」という不思議な章があらわれた。読んでみると、わずか5ページに過ぎない内容がめちゃめちゃ面白い。この一章のためだけでも買おうと思った。
ネットで「短歌_かとり派」で検索しても何も出てこない。よし、いまのところ誰にも気付かれていないらしい。歴史に埋もれた知られざる「短歌"かとり派"の歴史」をご紹介しよう。
天翔る飛行機! 飛び出る新枕詞の数々
話は昭和18年、トラック諸島に停泊中の軽巡洋艦香取の士官室ではじまった(正確には香取は「練習巡洋艦」だったらしいが、著者は軽巡洋艦と呼んでいる)。連合艦隊の待機場所だったトラック諸島(ミクロネシアの西にある諸島)ではまだまだ呑気に構えてもよかったらしく、ここに「短歌の伝統をやぶる「かとり派」が発祥」した。
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話のいきさつはこうである。著者・松永、司令部附の児島、分隊長の山本と遠藤という、四人の同期生がたまたま同じ香取に乗艦していた。児島は海軍経理学校で横尾晃夫という同期(?)から短歌を学んでおり、ときおり一首ひねっていた。そこで、他の三人が弟子入りしようということになり、水曜日に「歌会」をすることになったというわけだ。
ところが、松永、山本、遠藤は児島の和歌講義に一瞬で飽きた。3人はひそかに相談して今後はテキトーに作ったものを児島に添削してもらう形にしようと言い出した。
「しかし作るとなるとかんたんにはゆかんぞ」
「要するに昔の短歌は文章にすれば何十字何百字となるのを圧縮している。圧縮するから骨が折れる。だから逆に膨張させたら楽なはずだ。……」
3人はこれを児島に(真意を隠して)伝え、児島は3人がやる気になったものと勘違いした。こうして第一回添削回が開始された。このやりとりが最高におもしろいので引用しよう。
「天(あま)かける飛行機見れば……」弟子Aの第一作の上の句である。
児島 『天かけるとは何かね』
弟子A「飛行機の枕詞だよ」
児島 『枕詞は定まった言葉にかけられるものだが、新しい枕詞を勝手に用いることは認められない』
弟子C 「児島、伝統を守ることはそれなりの意味がある。しかし伝統を破るところに進歩と発展がある。貴様、一方では想像でなく、直接見たもの聞いたものを歌えと言う。だけど奈良も神社も見えない此処では、青丹よしも、千早振るも役に立たない。柿本人麻呂だって我々の環境におかれたら天かけるとやるさ」
枕詞の新語の採否は横尾のトラック港入港を待って、それまでは、五字ならべて名詞にくっつければ枕詞として黙認することとなった。
「音のする大砲」「水くぐる魚雷」「火花散る電信」と才気充溢な頭脳から次々と新枕詞が誕生した。
さらに字数稼ぎのために「踏み台詞」「梯子詞」など、奇策を次々に編み出し、珍句、奇語の飛び出す歌会で一同大爆笑。松永は毎週楽しみにしていたそうである。
かとり派壊滅
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ところが、この楽しい歌会も悲惨な戦争の中の一瞬の出来事にすぎなかった。
児島は弟子の質問に対して「駆逐艦嵐が入港したら横尾にきこう」とよく言っていたが、横尾晃夫大尉はこの時すでにソロモン方面で戦死していたことが、終戦後になって判明した。
半年後、松永市郎は那珂(軽巡洋艦)通信長に転任となり、香取を離れることになった。表向きは栄転だったが、着いたとたん敗色濃厚のマキン島守備隊の増援指揮官となることを告げられる。
ほかの三人は松永が前線に送られることに薄々気づいていたらしく、「荷物はなるべく置いていけ」と勧めていた。もちろん、親族に遺品として送るために。しかしむしろ松永は作戦中止で生き残ることとなった。
児島はサイパン島で玉砕し、山本と遠藤はトラック島海域で敵艦載機の空襲をうけ軍艦香取と運命を共にした。軍艦の中に生まれた、膨張型短歌「かとり派」は四人の大宗匠を失い、戦いの終わった時に消滅した。今在れば、前衛美術、花の草月等と並んで、世に存在価値を問うたであろうに。
注釈に書かれた仰天事実。横尾大尉の祖父は…
花の草月と並んだ……かどうかはさておき、何ともさびしくなってしまう話である。しかし、話はここで終わらない。
この本の注釈にビックリするような情報が小さい字で書かれていた。この短歌に詳しい謎の軍人・横尾大尉は、なんと尾崎紅葉の孫だったのだそうである。マジかよ。
ネットで検索すると『残照-海軍主計大尉横尾晃夫』という追悼本があるようだ。昭和45年の刊だが、まだ両親がご存命だったらしく横尾石夫(父・元海軍中将)、横尾三千代(母・尾崎紅葉三女)が編著者となっている。
横尾大尉がどんな歌を詠む方だったのかが気になるところだけれど、残念ながら私家版らしく唯一データを掲載している「自費出版図書館」は既に閉館しているらしい(ちなみに国会図書館も持っていない)。何か情報を持っている方がいたら教えてほしい。
ついでに言っておくと、著者・松永市郎の娘さんは夏野剛をNTTに招き" i モード" の開発者となったのだそうである。マジかよ。
「謎の短歌会・軽巡 ”かとり派” の歴史」というお話でした。