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レイシズム、ナショナリズム、パンデミック、そして世界戦争へ―仁木稔《HISTORIA》シリーズ

2004年の第一作『グアルディア』からスタートしたSFシリーズ《HISTORIA》。「新型コロナウイルスの世界的流行と人種差別や国籍差別の猖獗、さらにヨーロッパにおける帝国主義の亡霊が復活したかのような侵略戦争、といった現実を目の当たりにする2022年の私たちは、今や《HISTORIA》シリーズがどれほど人類の諸相を「リアル」に描いていたか身をもって知ることができる。」(文・生素 仁)

 世界的に流行する感染症によって、グローバルに接続した世界秩序が崩壊。感染者差別や人種差別が食糧難を難民の発生によって助長され、各国は相互不信から戦争状態に陥る。先進諸国でも「捨て去られた古い価値観」であったはずのナショナリズムや権威主義が復活。核兵器や大量破壊兵器が見境なく使用され、人類は残った生存圏をますます縮小させていく……。
仁木稔によるSF未来史《HISTORIA》シリーズの世界観だ。まるでここ数年の世情を踏まえて書かれたかのような印象を受けるが、第一作『グアルディア』は2004年の発表である。今回紹介する絶版本は、この《HISTORIA》シリーズから『グアルディア』、『ラ・イストリア』(2007)、『ミカイールの階梯』(2010)の三作だ。いずれも早川書房から刊行されている。

 まずは共通する物語の背景から見ていこう。19世紀末にダーウィンの進化論とメンデルの遺伝子法則が融合、カトリックの教義と進化論が結びつくことで〈神に祝福された遺伝学〉の名のもとに遺伝子工学が目覚ましい進展を見せた世界。12基の〈知性機械〉によって世界を掌握した遺伝子管理局のもと、21世紀から22世紀にかけて人類は社会と自然環境が徹底的に管理された絶対平和を享受する。しかし、宿主のDNAを取り込み急速に変異し続ける〈キルケ―・ウイルス〉によってこの平和は崩壊。〈大災厄〉の始まりである。食糧難に陥ったヨーロッパから新大陸やアジアへと大量の難民が発生したことを皮切りに、世界各地で戦争が勃発する。遺伝子管理局は災厄の拡大を抑止するため航空機、船舶、遠距離兵器を衛星によるレーザー照射によって破壊する〈封じ込めプログラム〉を起動。しかし陸地に縛り付けられた人類は猜疑心にかられ、さらなる殺戮に明け暮れることになった……。

シリーズ第一作『グアルディア』の舞台は〈大災厄〉発生からおよそ400年後の27世紀、遺伝子変異と放射能汚染によって文明が崩壊した南米。残存する〈知性機械〉へのアクセス特権を持つ生体端末アンヘリが中南米平定を目論む権謀術数劇と、ウイルス変異によって殺戮兵器〈生体甲冑〉と化した男JDによる失われた過去の探求が描かれる。ヨーロッパとインディオスの文化がグロテスクに融合した大陸を舞台に、土着信仰と混じり合い異形の神話と化したSFテクノロジーが鮮やかな印象を残す。

『ラ・イストリア』の舞台は前作から400年前、感染症拡大への恐怖と人種間対立によって軍事的緊張の高まる北米とメキシコ。白人至上主義者に支配された北米から、メキシコへの密入国者を手引きする仲介業者の少年アロンソが主人公。戦国絵巻的な前作とは趣向を変え、〈大災厄〉下を生き延びようとする民衆の姿にスポットが当てられている。

『ミカイールの階梯』では、ソヴィエト連邦とイスラーム原理主義を模倣した二つの権威主義国家が支配する中央アジアが舞台となる。両陣営の狭間で旧文明を伝承してきたミカイリー一族の内紛をきっかけに、人類が感染症と共存するための進化の道を選ぶことになった〈神話〉の顛末が描かれている。

 ゼロ年代を代表するポストアポカリプスSFの書き手と言えば、おそらく多くの人が『虐殺器官』(2007)や『ハーモニー』(2008)の伊藤計劃を想起するだろう。伊藤の小説は「人間の自由意志とは自然選択やテクノロジーに支えられた偶然ではかないものでしかない(のではないか?)」という観念的な問いを描きながらも、そこに伏在する伊藤自身の闘病経験に裏打ちされた実存的な迫力ゆえに幅広く受け入れられ、高い評価を受けている。

 伊藤に比べると仁木のスタイルは散文的で、ときには素っ気なくさえある(これも実力に相応する評価を受けてこなかった原因の一つだろう)。仁木の小説は常に「時代や状況が変わろうが人間の反応のパターンは変わらないし、疎外され苦しむ人々は常に存在し続ける」というリアリズムをベースに書かれている。仁木の小説はポストモダン左派的なボキャブラリーを駆使する批評家によって「同時代的」であると評価されることが多い。しかし仁木本人がそうした評価に反発していることからも分かるように、その小説はむしろ「普遍性」に基づく「歴史叙述」を志向しているのである。

 誤解を招かないよう付け加えると、《HISTORIA》シリーズにおける「普遍性」は神の視点に立った素朴な自然主義史観ではない。本シリーズでは語りのレベルが「歴史」「神話」「エンターテインメント」に分割されている。前二者で語られる出来事は常に語り手や書き手のバイアスに左右され、読者は事実を確定できず常に懐疑的な読みを余儀なくされる。また「エンターテインメント」のレベルで展開される物語や登場するキャラクターの造形はアニメやライトノベルを彷彿とさせる記号的なものだが、これは語られる「歴史」が常にわかりやすい記号や類型に回収されざるをえない、という歴史認識の反映でもある。こうした安直な「普遍」を回避するための自覚的な方法論と該博な歴史知識に支えられることで、《HISTORIA》シリーズはポストアポカリプスSFとしてだけではなく、「歴史そのままと歴史離れ」問題と誠実に向き合った歴史叙述としても成功しているのである。
 
新型コロナウイルスの世界的流行と人種差別や国籍差別の猖獗、さらにヨーロッパにおける帝国主義の亡霊が復活したかのような侵略戦争、といった現実を目の当たりにする2022年の私たちは、今や《HISTORIA》シリーズがどれほど人類の諸相を「リアル」に描いていたか身をもって知ることができる。評者は仁木の小説が「予言の書」であるなどとたわごとを述べるつもりはない。そもそも、初めから人類の「普遍性」に透徹した目を向けていた作品と作家に対し「時代が追いついた」などという評価は不当ですらあるだろう。しかし、時代が追いつきでもしなければ読者がその価値に気づくことのできなかった作家として、今こそ仁木稔が読まれるべきときなのだ。絶版のままにしておいてよい作品ではない。
 
 

※本note執筆に際し、仁木稔個人ブログ『事実だけとはかぎりません』の「〈HISTORIA〉設定集コンテンツ」カテゴリー内諸記事、および佐藤亜紀による『グアルディア』文庫版(2007)解説を適宜参照しました。
生素 仁(ikumoto-jin) 彰往テレスコープ同人。『vol.02』では書評「人文知の役に立たなさからはじめてー書評『風と共に去りぬ』ー」を執筆
https://twitter.com/shanshan9645

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