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【本居宣長の空想地図】 その4 王国の国土編

このシリーズは1月30日発売予定『彰往テレスコープvol.2』企画展記事と連動した企画です。
※この記事は前回の続きです。前回の記事はこちら

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王国の国土

 前回に引き続き、空想都市・端原を内包する王国について探ってみましょう。今回は国土編として、端原を包摂する国土を考えてみます。

「端原氏城下絵図」をみると、御所のまわりに有力な家臣すべてが居住しており、この絵図の時点(前に言ったように『系図』『絵図』は宣政が君位についた後の正元年につくられたという設定をもっているらしい)では端原は王国の宮都であるようです。しかし、もともと端原は6千石の家臣・端原氏の領地にすぎなかったわけですから、道房3年に宣政が君位につくまではどこか別の場所が都であったはずです(書いてないけど)。


 端原以外の王国の国土について、私たちが知ることができるのは、『系図』に書き込まれた地名のみです。これは家臣の領地として書いてあるものですが、端原であれば「鹿那郡端原」というように(ただし『系図』上で鹿那郡と書かれている端原は、『絵図』上では高日郡に属しているように見える)、「○○郡〇〇」というような形で書いてあります。郡よりも大きな区分はないので、どうやら郡が最上位の区分であるようです。

試しに『系図』記載の地名をリストアップしてみましょう。

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 こんなふうに整理していくと、この王国というのは日本と並び立つぐらいの面積をもったものだとばかり思っていましたが、どうやらもっと小さいのではないかという気がしてきました。


 例えば家臣の中でトップクラスの御分家筆頭・喜前殿こと端原宣良(宣政の次男)でも、その所領の石高は1万3千石となっています。これは江戸時代の日本のシステムでいうと大名の末端で、大藩の家老と同じくらいの石高しかないことになります。もっとも端原では1万石以上の家臣なんかほとんどいないわけで、邦客の上の方でも大体6千石から8千石程度となっています。

 ということは、この王国のモデルは大名や藩なのではないでしょうか。試しに端原家臣団の石高構成から、江戸時代で類似例を探しますと、この王朝は薩摩藩77万石とか、仙台藩62万石とかのトップクラスの大名家がちょうど当てはまる感じがします。系図上の禄高を全部足した数から考えるともっと少ないかもしれません。

 したがって王国の国土も大藩の所領ぐらいのもんだと思います。江戸時代の感覚で言えば非常に大きな「国」ということになるのでしょうが、現代の私たちからみれば随分ショボいような気もしますね。

端原のまわり


 さて、この国土の中でしっかりした地図が描かれたのは端原のみということになるわけですが、『絵図』にはたとえば「至○○ △里」のような周辺情報もちょっとだけ書かれています。こうした記述をもとに端原の広域図を推測すると....こんな感じです。

端原推定広域図_アートボード 1

 『端原氏城下絵図』の範囲が赤線でくくった部分です。これをみると、やはり何と言っても端原は水運が盛んな都のようですね。街の東側には四郡湖畔各所からの物資が、西側には湊から紅葉川を上って物資が舟によってもたらされています。端原は水運と街道が連携した、物流の要所のなのかもしれません。

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