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【本居宣長の空想地図】その7 小津栄貞編1

270年前、19歳の本居宣長が作った空想地図を解き明かすシリーズ。
このシリーズは『彰往テレスコープvol.2』(近日発売予定)企画展記事と連動した企画です。
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で、キミはいったい何がしたいのさ。

 端原世界の説明は前回のでおしまいにします。これ以上は、言葉で説明するよりかは『絵図(彰)』を見ていただいた方が早いと思うからです。ここまで読んでくださった方には、端原世界がいかに狂気に満ちた緻密さで作られているかということがご理解頂けたかと思います。やっぱし小津栄貞(後の本居宣長)に聞きたくになってくるのが「でさ、君は一体何がしたいのよ」ってことですよね。そこで、ここからは黒子の栄貞にお出ましいただこうと思います。

 発見当初に考えられていたのが物語創作説であることは何回かお話しました。この絵図と系図を発見された一人の山本信吉さんは、栄貞は「端原氏物語」という物語を作るために『系図』と『絵図』を作り、物語の方は作られなかったか、あるいは破棄されたのではないか、という推測をされました。そして「今後宣長自筆稿本の紙背から、今度は物語の草稿の一部が発見される可能性が充分に考えられるだろう」とも記しておられます。もうひとりの発見者・岡本勝さんが、この推測から、この系図の中の情報を宣政の生涯を中心に再構成し、あったかもしれない端原氏物語のストーリーを提示されたのは最初に述べたとおりです。

 しかし、この説は早くから懐疑的にみられています。私もこの説にどうも納得できません。もちろん、栄貞の頭の中には当然、岡本さんが推測されたようなストーリーはあったと思います。でも物語をつくるならば、わざわざ『系図』に君主の陪臣(家臣の家臣)の名前まで書く必要があるとは思えませんし、故人の戒名まで作っているのは解せません。
 最初に言ったとおり、『系図』も『絵図』も端原宣政が君位に昇って少し後の「正元年」という年に編纂されたという設定になっており、異世界の古文書という体になっています。物語を作る予定の人間がこんな設定付きの創作メモ作ったりするでしょうか。栄貞は最初っから物語を作る気は無く、巧妙なニセモノを作ることに執念を燃やしていたと考える方が自然ではないかと思います。

都市プランの襟懐-玉垂島を一例に-

 架空の世界がその作者の意識に拘束されているとすれば、端原城下の空間からは、栄貞のどんな意識が読み取れるでしょうか。京都への強い憧れ、という点は上杉さんの説を紹介したところでも述べたので別の角度から考えてみましょう。
 注目したいのは端原の名所です。今までの研究ではほとんど指摘されていませんが、『端原氏城下絵図』を活字に起こしていくと、栄貞の「名所を作ろう」とする意識を感じ取ることができます。その意識が特に顕著にあらわれているといるのが三柳(ミヤナギ)の一帯です。せり出す「新園崎八幡宮」と「トヨミヨ林」、四郡湖に浮かぶ弁財天の霊地「玉垂島」、「雁ガ浦」「花形浦」の二つの浦や、「妙眼寺」など。この一帯だけでかなりの数の名所が点在しています。
 当然それぞれにイメージソースと意味があると考えるべきでしょうが、都合上すべての名所やっているわけにはいかないので、玉垂島を一例として栄貞の意識を探ってみましょう。

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 「玉垂島」は「新園崎八幡宮」北東にある島であり、八幡下と「杉野」から渡し船が出ています。島の船着場には鳥居があり、島内には「茶店」「龍神社」「辯財天」の社、「島岸寺」「天女院」があります。

 玉垂とは、

玉垂の小簾のすけきに入り通ひ来ねたらちねの母が問はさば風と申さむ。『万葉集』2364

のように、古くからある言葉です。ここでは簾の美称として使われていますが、もとは玉を紐で貫くさまをいうそうです。また、雫のことを玉垂と呼ぶこともあるとか。あるいは、筑後国一之宮の高良大社の別名・玉垂宮を引用元に考えてみることもできます。これは八幡にゆかりのある神社です。

 この言葉を島の名前に当てているのは、和歌山県和歌浦の玉津島からの連想でしょう。玉津島は万葉のいにしえよりの歌枕(歌の題材となる名所)です。

玉津島見れども飽かずいかにして包み持ち行かむ見ぬ人のため。
『万葉集』1222

そう歌われるほど玉津島は美しく、その社は和歌の神として歌人から崇敬されていました。端原でも南部の「誓憧寺中ノ丁」に、住吉社と共にこの玉津島社が勧請されています。この住吉、玉津島の二社は当時においては和歌の神のペアとして崇敬され、江戸時代の宮中では歌会で詠まれた歌を奉納するならわしもあったそうです。

住吉のはまの真砂をみかく日も光春なる玉津島山
『正徹集』


 しかし、この玉津島の祭神は弁財天ではありません。となれば別のイメージソースも考える必要があります。当時において弁財天の島といえば、なんといっても竹生島です。琵琶湖の竹生島は当時、京に付随する名所とされ、能「竹生島」によって広く知られていました。

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 能「竹生島」では、朝廷の廷臣たちの前で弁財天が舞い踊り、海中から出現した竜神が財宝を献上し、弁財天の神徳をこう語ります。

元より衆生済度の誓ひ。様々なれば。或ハ天女の形を現じ。有縁の衆生の諸願を叶へ。又ハ下界の龍神となつて。国土を鎮め。

 あるいは竹生島にまつわる『平家物語』の逸話も当時ではよく知られていました。平経正が木曽討伐の折に竹生島に参詣し、社壇で琵琶を奏でると、弁財天が白竜に化生して経正の袖の上に現れた。経正は大変ありがたく思い、

千はやぶる神にいのりのかなへばやしるべも色のあらはれにけり

と和歌を詠みます。


 玉垂島はおそらく、以上のような複数場所の引用によって想像されている場所なのでしょう。で…何が言いたいかというと、端原は名所は小津栄貞の地誌的知識がかなり反映されているのです。かれは知識を再展開することによって、仮構の場所の由緒・オーソリティーを作り上げようと試みているのです。特に湖畔の一帯は和歌との深い結び付きが伺われ、三柳と桐ガ畑を結ぶ「歌仙橋」という橋にも何らかの意味を考えるべきでしょう。

 かれの時代の地誌とは、場所とその由来の物語、その場所が今持っている役割、意味。そうしたものを全てひっくるめて理解しなければならないものです。栄貞が当時、場所に対してどのような意識を持っていたかは、彼が端原世界と同時に作っていた京都の随筆『都考抜書』を引用すればわかりやすいでしょう。

雲林院  むらさき野也、此寺は天台宗なりしが、大徳寺建立の時、大燈國師に給る故に禅宗となり、其後あれはて、わづか成草庵なりしが、近き比再興あり、いにしへ此所はさくらの名所にて、代々の御門行幸ありし所なり、源道齋此所の花を折て、和泉式部が方へつかはすとて、「またみせん人しなければさくら花今一枝をおらずなりる」、式部返、「いたづらに此一枝はなりぬ[とも]なりのこりの花を風にまかすな」
廣澤池  仁和寺ノ西也、三五夜中新月色トハ此池也、或人云、月ヲ見ニハ、池ノ西ノ方ニ居テ、東山ノ峯ヨリ出ル月ノ水ニウツルハ、タグヒナシト云リ、古ヘ源頼政此池ニテ、「古ヘノ人ハミギハニ影タヘテ山ヨリ出ル月ニ似タリ」、故ニ融公、平重盛公ナド、此所ニテ月ヲナガメ玉ヒシト也
『都考抜書』(底本は『本居宣長全集』カッコは筆者)

このように、その場所の由来、歌と物語を採集しています。ちなみに『都考抜書』は全部こんな感じで書かれており、対象は宮中の制度にまで及んでいます。残念ながら私たちには端原の名所を逐一紐解く余裕はありませんが、今後端原を訪れる人は街の名所のイメージソースをもっと考えてみてもいいかもしれません。その際、『都考抜書』はよい参考になるでしょう。

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