
芥川龍之介とドストエフスキーの価値観
『蜘蛛の糸』と『罪と罰』にみる悪行と善行
一つの罪悪は百の善行によってつぐなわれる『思い込み』
ドストエフスキーの『罪と罰』を読んだことがあるでしょうか。
主人公ラスコーリニコフは、質屋であった婆さんの強欲に対して非常に強い嫌悪感を示し、その婆さんを殺すことは『善行』であるかのように思い込み、殺そうと決意します。
しかし、犯行当日に、婆さんの妹に現場を見られ、考えるよりも先にその妹さえも殺してしまうのです。
その罪(『悪行』)をずっと抱えたまま生きていく話の中で、主人公ラスコーリニコフがいう言葉にこんなものがあります。
「一つの罪悪は百の善行によってつぐなわれる」
つまり、「一つくらい悪いことをしても、百個いいことをすれば、その罪はつぐなわれるに違いない」ということです。
なんとなく、「その通りの気がする」と読者に思い込ませながら、主人公に共感させて、その問いと向き合わせながら物語は進んでいくのです。
お釈迦様の『気まぐれ』
一方、『蜘蛛の糸』という芥川龍之介の作品です。
これは、教科書にも載っていたもので、知っている人も多いのではないでしょうか。ここではおさらいをしてみましょう。
カンダタは多くの人を殺し、多くの『悪行』を働いてきた人物です。
悪者であるカンダタは死んでから、地獄に落ちてしまいます。
そんなカンダタを、天の国(高い世界)からお釈迦様が見つけます。
「カンダタは悪い奴だが、たった一ついいことをしたことがある」
といって、チャンスを与えることにします。
「道を歩いていたら、一匹の蜘蛛が歩いていた。踏みつぶそうと思ったがやめた」気まぐれからカンダタは踏みつぶさなかったのですが、そんなカンダタのおこないを『善行』とみなしたお釈迦様が、気まぐれに『蜘蛛の糸』をたらします。
思い込みと気まぐれのよって描く善行とは
『罪と罰』では思い込みによって、善行が描かれています。
『蜘蛛の糸』では気まぐれによって、善行が描かれています。
これは、対照的な描き方に見えて、実は本質は同じことを言っているような気がしています。
わたしたちは、善行という存在自体が、「良いおこない」だと信じています。それは、恵まれない子供に食べ物を与えたり、戦争孤児に生活環境を整えてやることが、何にも代えがたい『善行』であると思い込んでいます。
たまたま、駅前に募金活動をしている人がいて、その募金箱にお金を入れました。それは、普段しないことであるにもかかわらず、その時はたまたま、そんな気分になったからやっただけの、気まぐれにすぎません。
自分の中では絶対に許せないと思い、自分の正義感から歩きたばこをしている人を注意します。
そのこと自体がいいことであると思い込んでいるため、そこには達成感しかありません。「今日も一つ、いいことをした」そう思ったりします。
注意された男性は、近頃タバコを吸う場所が制限されている世の中に対して、不満を抱いていました。
「世間の奴に、タバコを吸う場所がないことで苦しんでいる愛煙家の気持ちを代弁してやる」
男性は世直しをするような気持ちで、タバコを吸っている人々の代表になった気分で、自分の中の正義感をもって歩きたばこをしていました。そうするのが一番いいと思い込んでおこなった行為だったのです。
その後その男性は、自分の信じていた正義感を否定された思いから、むしゃくしゃしてつい、電車内で痴漢をしてしまいます。
その被害にあった女性は、そのことがトラウマとなって、人が多くいる場所に出かけられなくなってしまうのです。
『善行』とはいったい何でしょうか。
そんな問いを、わたしたちに投げかけているのではないでしょうか。
自分にとっての『善行』が、誰かにとっての『悪行』になっているのかも知れません。
しかし、それを信じるしかないのです。
なぜなら、そこには答えが存在しないからです。
人が神を信じるように、『何かを信じる』ことによってしか、わたしたちは『善行』をおこない、『悪行』をおこなわないことが、できないからです。
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