『フォルトゥナの瞳』読了感想
『選択』というテーマ
人は朝起きてから夜寝るまでに9000回の選択をしていると言われている
※これにはネタバレを含みます。
『フォルトナの瞳』を読み終わった方のみ、お読みくださると嬉しく思います。
人の運命が見えるということは、自分の運命に怯えながら生きていくことに繋がっていくのだと知った。
事実を淡々と積み重ねていくという、当たり前の毎日というものが失われる。
結果がわかってしまうということは、選択肢が増えてしまうのだ。
今まで自分に自信がなく、それを与えてくれたのは、葵だった。
真理子は勇気を持つことの大切さを教えてくれた。自分が告白していれば、彼女の人生を少しでも変えられたかもしれない。
最後に主人公は障害で警察に駆け込んだ松本のせいで、逮捕される運命にある。生き残ったとしても。そして、電車を止めた罪もある。
たぶん世の中の人々には誤解されてしまうだろう。その誤解を解くすべは最早ない。
葵だけが知っている事実。
エピローグの解説は必要か?
葵も同じ瞳を持っていることは、本編だけで十分にわかった。
※エピローグで語られる必要は無かったのでは?最近の小説は、全てを語りすぎていて、読者の想像力を失わせていると感じる。
言葉ではなく、行間や余白で語るという、日本語の機微というものをもっと大切にしていくと、日本文学の明日への光となるのではないだろうか。
多くの他人を救うことと、自分の周りの限られた人間を幸せにすることの狭間で悩んだ主人公。
その選択の中に、『自分ひとりだけの幸せ』はなかったのが印象的。
結果的に彼の選択は間違っていたのか?
馬鹿な選択をしたと、主人公を笑えるか?
素晴らしい選択をしたと、主人公に賛辞を贈れるか?
好きな人に、ただ『好き』と言うことの、儚さと美しさが、主人公の人生を物語っているのだと感じた。
葵はなぜ同じ瞳を持っていると明かさなかったか?
それは、誰よりも『フォルトゥナの瞳』を持つことの辛さを知っているからに他ならないのではないだろうか。
天涯孤独として生まれた彼は、命を捨てることを厭わなかった。
しかし大切な人が出来ると、途端に命を捨てることを躊躇する。
しかし、命を捨てることを躊躇する人生の方が遥かに幸せなことは言うまでもない。
思いを伝えなかった真理子のときよりも、思いを伝えた葵のときのほうが遥かに辛く悲しい。
しかし、葵のときのほうが遥かに幸せだ。
私達には普通のことでも、木山慎一郎にとっては《当たり前の幸せ》を知ることができた瞬間であり、この能力がなければここまでたどり着けなかったであろう。知ることなく死んでいった人生だったかもしれない。
最期に慎一郎は、両親となつこと再会する。
火事で自分以外はみんな死んでしまった。
そのみんなと会える。
良かったね。そう言ってあげたい。
彼の運命とは何だったのか。
人の未来が見える人だったからこそ、苦しんだ。
見えなければ苦しまなかったのか。
苦しみと同じく、喜びも得られた慎一郎。
喜びも悲しみもない人生に、そもそも意味なんてないのではないか。