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家庭に仕事を持ち込まない美学

妻はドライな運命共同体

私にとって、お金を稼ぐことがすべてだった。
高校生の頃からアルバイトをしており、夏休み中、八月の一か月で二百九十八時間働いたこともあった。働いてお金を稼ぐことが好きだったが、何よりも接客業に面白さを見出していた。バイト先の飲食店に就職し、週に一度の休みで三十年以上働いてきた。有給休暇もボーナスもない会社がほとんどだった。
高校デビューというのだろうか、それまでは人とコミュニケーションを取ることが大の苦手だったのに、バイトを始めて変わったのだ。
バイト先の人生の先輩と話すことが面白く感じてきたのも、この頃である。
知らないうちに『仕事をする』ということが、私にとっては苦痛ではなく、「面白く、楽しい」ことになっていたのだ。

こうして働くことをポジティブに受け止めてきたため、仕事でめったなことがあっても落ち込んだりしなかった。
「真面目で思い詰めて考えてしまいそう」
と人からは見えるらしく、よく心配されるのだが、実際はそんなことはほとんどない。
ただ、めったに落ち込まないからなのか、落ち込んだときはかなりひどい状況になることがある。
そのため、心配をかけたくないという思いから、仕事を家庭に持ち込まないと決めている。

妻と私は二人暮らしであり、子供はいない。
自立した男女の関係であり、「できることは自分でやる」というルールになっている。自分以外のことをやったとしても、「やってあげた」という気持ちは持たず、それがごく自然になこととして振舞うことになっている。
二人で話をした際「恩着せがましくしない」、ということがお互いが気持ちよく生活するためには何よりも重要だという結論になったのだ。
毎日の晩ごはんや休日には一緒に過ごすことが多く、無駄話は少なかったかもしれないが、夫婦の心が通じている感覚はあった。
しかし、こうした「乾いた関係」というのは、時として少しの物足りなさを感じたりする。私は、妻の気持ちが見えない時があり、それが悩みだった。

傍からは「ドライな関係」だと言われることがあるが、私たちはそのようには感じていない。むしろ、こうした「依存しあうことの少ない生活」が居心地の良さを生んでいると思っている。

ある時、会社内でパワハラが横行したときがあった。
私も被害者の一人となり、罵詈雑言を毎日浴びている日々を過ごしたのだ。
「この仕事したの誰?」
という犯人探しから始まる。
先輩方も、こうした状況に慣れきっており、管理職から問い詰められても、落ち着いて対処する人が多かった。
「僕じゃありません」
例え自分だとしても、後輩や自分よりも立場の低い人のせいにする。そんな最低な振る舞いが、日常茶飯事で行なわれていたのだ。
他人のせいにすることで生き残り、自分のせいにされた人は、会社の体質に絶望しながら辞めていく。そんな図式だった。

後輩がミスした。
出先で大切な資料をなくし、その置き場所が定かではなかった。
私は一緒に仕事をしていたのもあったため、私にも責任の一環はあると考えて、一緒に捜索した。
時間だけが刻々と過ぎていく。もう限界だ。そう思って会社に電話した。
初めはベテラン社員の高木さんが出た。
「まあ、しゃーないな。その書類はコピーが取ってあるから、先方に電話して書類は『後日もう一度お持ちします』と、伝えてくれたらいいよ」
と言ってくださり、その場は一気に和んだ。
後輩もミスをしたからか、委縮してしまい、口数が少なかった。
やがて、電話が会社からかかって来た。
「大野です。なに? どっちが無くしたの?」
「私です」
とっさに嘘をついた。後輩のせいにはできない。私にも責任はある。
「お前、なめてんの? そんな書類探すのにどんだけ時間使ってんだよ」
会社でも一番パワハラしてくると有名な大野さん。本社でも把握されているほどに、他人に対する当たりが強い。言葉で追い詰めてくるタイプだ。
「いや、しかし、書類をなくして、ああそうですか、というわけにもいきませんよね?」
そう聞くと、「調子乗ってんじゃねーぞ!」と罵詈雑言を浴びせてくる。
電話越しでも、頭の中が真っ白になり、手のひらは汗でびっしょりとなって、動機や息切れがしてくる。言葉なんて、頭に入らない。

悔しくて、泣いた。
帰りの車の中では、家に着くまで、一人でずっと泣いていた。
帰っても、切り替えができない。このままは帰れない。仕事を思い切り、家庭に持ち込んでしまう。
「どこかで時間でもつぶそうか」
そう考えながら、自宅マンションの駐車場で、車内に十五分ほどいたとき、運転席側の窓をノックする音が聞こえた。
「おかえり! 今日は嫌なことがあってさ、付き合ってよ」
そういう彼女の手には、缶チューハイが二本、抱ええられていた。
「ああ、仕方ねえな」
私がそう言うと、嬉しそうに彼女は私の肩に手を回し、
「いや~、人生なんて、嫌なことだらけだね~。でも、こうして運命共同体が居るっていうのは、心強いね」
彼女は、最高の笑顔で迎えてくれた。

私の気持ちを代弁してくれている妻は、私の気持ちをちゃんと見てくれている。

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尾崎コスモス/小説家新人賞の卵
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