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『憂国』の天才作家
三島由紀夫というエリート作家
自決した三島由紀夫
「もったいない死に方をしたものです」
そう語った川端康成は、年若い弟子であり、友人でもあった三島の死にショックを受けたに違いない。
1970年(昭和45年)11月25日に事件は起きた。
『楯の会』会員4名とともに、東京の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地を訪れ、計画に沿って東部方面総監を監禁した三島は、バルコニーで檄文を撒き、クーデターを促す演説を10分間ほどした。
騒ぎを聞きつけて集まってきた自衛隊員たちを前にした演説は、拡声器を使わずに肉声だったため隊員たちの怒号とヤジにかき消されほとんど聞こえなかったと言う。
「お前ら聞けぇ!聞けぇ!」
「それでも武士かぁ!」
隊員たちに決起を呼びかけるも、三島の志に共感する者はいなかった。他人ごとのように自らを見上げる面々を目の当たりにした三島は、「天皇陛下万歳!」と3回叫んだ後、総監室に戻って割腹自殺を遂げた堂々たる切腹だった。
この時、介錯した森田必勝(もりたまさかつ)も後を追って割腹して亡くなった。
三島由紀夫は45歳、森田必勝はまだ早稲田大学在学中で25歳の若さだった。
二人の遺体を前に人質とされていた総監も敬意を表して正座をし、名目合唱したと言う。
この事件は世界中に大きな衝撃を与えた。
三島には、滅びの美学と切腹の様子を描いた『憂国』という作品がある。この作品について生前三島はこう書いている。
もし、忙しい人が、三島の小説の中から一遍だけ、三島のよいところ、悪いところすべてを凝縮したエキスのような小説を読みたいと求めたら、『憂国』の一遍を読んでもらえばよい。
ムキムキのボディの理由は『死の本質』を示すため
三島は、世界的作家として1965(昭和40)年度のノーベル文学賞候補にその名が挙がっていた。
その時期、彼は本業の作家活動とは別に、肉体改造のためのボディビルに剣道、そして自衛隊体験入隊と、活動の幅を広げていた。
やがて三島は一万人規模の民兵組織を構造し、血判状まで作って祖国防衛隊を組織しようとした。
この組織構造をもとに、1968(昭和43)年に結成されたのが、民兵組織『楯の会』だ。
書斎の哲学者が、いかに死を思ひめぐらしても、死の認識能力の前提をなす肉体的勇気と縁がなければ、つひにその本質の片鱗をもつかむことがないだらう。
『太陽と鉄』でこう書いた三島は、その言葉の通り、書斎を出て、自分の肉体と行動で「死の本質」を示した。
「僕は太宰さんの文学はきらひなんです」
三島は学習院高等科を首席で卒業し、式に臨席した昭和天皇から恩賜の銀時計を拝受したほどの秀才だった。
16歳の時には小説『花ざかりの森』を発表するほどの早熟の天才で、鎌倉に住む川端康成を訪ねてその才能を認められ、生涯の指定関係となる。
東大在学中、三島は誘われて太宰治に会いに行く機会を得た。
当時の太宰は売れっ子作家である。だが三島は太宰のデカタン(退廃的)な生活を「意識過剰な自己虚作にすぎない」と批判していたので、太宰に会うことに対して、「懐に匕首を呑んで出かけるテロリスト的な心境であった」と回顧している。
時に太宰37歳、三島21歳。
太宰は、いつものように酔っ払って持論を展開し上機嫌になっていた。そんな彼に三島はあらかじめ明言しようと決めていた決定的な言葉を発した。
「僕は太宰さんの文学はきらひなんです」
一回り以上も歳の離れた作家に対して啖呵を切るのだから、なかなかの度胸である。
これに対して太宰は次のように答えた。
「そんなことを言つたつて、かうして来るんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やつぱり好きなんだ」
怒るでもなく、笑うでもなく、いかにも太宰らしい方だ。
それに対して、若者らしい熱のこもった反発をうまくかわされてしまった形の三島は、次のように分析している。
ただ、私と太宰氏のちがひは、ひいては二人の文学のちがひは、私は金輪際、「かうして来るんだから、好きなんだ」などとは言わないだらうということである。
三島と太宰、二人の天才の一度きりの出会いだった。
その後、三島は東京大学法学部を卒業して大蔵省(現財務省)に入省したが、作家と官僚の無理な二重生活は続かず、一年足らずで大蔵省を辞めた。
以前は作家になることを反対していた父にもようやく認められ、満を持して作家稼業に専念することになった。
作家生命をかけた渾身の書き下ろし小説『仮面の告白』は、同性愛の苦悩を告白した問題作で、三島はこの作品によって文壇で認められることになった。その後も精力的に作品を発表し続け、『潮騒』『金閣寺』などで次々に文学賞を受賞した。
そのまま生きて作品を発表し続けていれば、間違いなく川端に続くノーベル文学賞の受賞者となっていただろう。
個人的には残念でこの上ない。
なお、市ヶ谷駐屯地で割腹自殺をした1970(昭和45)年11月25日という日は、皇国主義者の三島にとって大きな意味のある日だった。
それは1921(大正10)年に昭和天皇が大正天皇の摂政に就いた日であること。また昭和天皇が戦後「人間宣言」をしたのがこの時の三島と同じ45歳だったこと。そして尊敬していた吉田松陰の刑死の日を新暦に置き換えた日に相当することだ。
日本の敗戦を告げる玉音放送に涙してから一か月の頃、自身のノートに
「日本的非合理の温存のみが、100年後世界文化に貢献するであらう」
と記した二十歳の平岡公威こと、後の三島由紀夫。彼の予言した100年後の世界はどうなっているであろうか。
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