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疑問を持つ読書

難解な本は疑問を持たないと理解できない

「良い本というものはどういった本ですか?」
そのような問いかけがあった場合、「平易な言葉で誰にでも理解できる本」と答える場合がある。

難しい言葉を使うことなく、誰にでも理解できるように説明するのは、多くの人にとって都合がいい。
それは、私のように教養がない人間でも、“今のままの自分”で理解できるからである。
YouTubeでもチャンネルの文句を「予備知識なしで楽しめる」としている配信者もいるほど、『勉強しなくてもわかる』ということは、とても重宝される。

しかしこのように、『勉強しなくてもわかる』というのは、どういうことなのだろうか。
これは、「なぜ?」という疑問を持たないということに他ならない。もし疑問を持ったとしても、すぐに説明してくれるということである。だから、「予備知識なしで楽しめる」わけだ。
このように、『一から十まで説明してくれること』に、私たちは慣れてしまった。
どんなことでも、最初から丁寧に説明してくれることに対して、「どうしてこんなに丁寧に説明してくれるのだろう?」と疑問にも思わない。

説明してくれることに対して、疑問に思わないのは、考えて聞いていないことと同意となる。耳から垂れ流されている情報を、何の疑問も持たずに横流ししているのだ。

私は長らく、飲食業で働いてきた。
飲食業、特に私の携わってきた寿司屋などでは、最初から仕事を説明されるようなことはなかった。
能動的に、“自分から覚えにいく”のである。
「どんな仕事をしているのだろう?」
「なぜこんなやり方をするのだろう?」
「これは、なぜ必要なのだろう?」
このように、日々の仕事の中で、疑問を持ち続けることが重要だった。
本も同じである。
読書時間を、長いこと過ごしてきたが、本に対して疑問に思うことはとても重要だと感じている。寿司屋になった時、読書によって培われた『考える癖』が功を奏したといっても過言ではない。
私が愛しているのは、小説である。
ビジネス書も時には重要だが、人生において重要なことはビジネス書には書いてない。
疑問を持って、自分の答えを導き出すのは、どうしたって小説に軍配が上がる。

ビジネス書と小説の違いは、その“読み方”にある。
ビジネス書というのは、冒頭にも書いたように、「より、わかりやすく説明してくれる本が良い本である」といった考え方が一般的である。
誰にでも、すぐに実践できる例題が、数多く紹介されていて、そのくせ理由もわかりやすいため納得して始められる。これが、ビジネス書の定義に近いのではないだろうか。
それを証拠に、読書会などで紹介されるビジネス書の多くは、「例題が多くて本質かわかりにくい」「文体が難しくて取っ付きにくい」といった感想を多く持たれる。
そこに「なぜ、このような書き方をしているのか?」といった疑問を持つ人は、数が少ない。

しかし、小説を思い出して欲しい。
「小説を一冊も読んだことがない」
という人は稀だと思う。その読んだことのある小説は、果たして他人と同じ感想だっただろうか。いや、決して違うはずだ。
どのような小説であれ、それが“物語”である以上、読み方は十人十色である。
それは何故かと言うと、読み手にもそれぞれの人生があるからである。
今までの人生経験を経て、今現在その本を読んでいる自分がいる。
すると、どうしても理解できない部分が登場することになる。それは、知識量や情報量の差ではない。『経験の違い』なのである。
“量”ではなく“違い”なのだ。

当然のように、人それぞれ“違い”があれば、疑問に思うことも違う。
ある登場人物に共感することがあれば、違う登場人物のことが全く理解できないことがある。それは、誰にでも当てはまる事実である。
そこに答えはなく、それこそが“小説の可能性”なのだと思う。

そしてその小さな疑問。
小さな自分の心の動き。
それらに耳を澄ます。
そうすることによって小説は、いくらでも寄り添ってくれる存在となる。
ごくごく小さな自分の変化を教えてくれる存在となる。

私たちは日々、忙しく生活している。
その時間に流されることは、川の流れを目で追っているのと同じだ。
右から左へ、行く川の流れを目にしつつ、それでもその水は元の水にあらず。
社会が変化していることを理解しているはずなのに、自分には変わらないように見えてしまう。それは、流れを流れとして見ているからである。
それらに抗ってみて初めて、違う流れが出来上がり、自分の形が造られる。

忙しいからこそ、ゆったりと読書を楽しみたい。
どうせ、一生かかっても、全ての本を読み尽くすことは不可能なのだから。

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