どうして時数が多いのだろうか?(私見)
標準時数を大幅に上回ってというところが、どうしても引っかかる。いろいろなことを想定して、結果的に上回っているのだろうと考える。しかし、大幅に上回るということは、そもそもやらなくていいことをやっているか、やるべきことを精選できていないかもしれない、ということではないだろうか。
わたしが見てきた学校や先生方は、どこもどなたも一生懸命である。だからこそ、丁寧に指導しすぎるということは起こりうると思う。結果、あれも、これも、やらなくてはいけない、と思い込んでしまうのではないだろうか。
また、いわゆる赤刷りの指導書通りに教えることが正しい(場合によってはそれもアリ!ではあるが・・・)のである、と信じて疑わない教員も多い。そうなると、目の前の子供たちの実態を無視した指導書通りの計画が進んでしまうことになる。本当は、そこの時間の内容はもうわかっているのに、復習です!とか言って丁寧に教えてしまうことになって、時間が増えていく。誰か一人ができないだけでも、みんなで復習してしまう。テストの結果が思った通りでないからと言って、何回も同じテストをやらせて合格点まで到達させようとする。それはそれで、大切な指導でもあるが、本当にそれ必要ですか?と問いかけてみることは必要である。
今年度、授業を拝見した先生の中には、指導内容を見直して、子供たちに合わせて思いっきり精選している方がいた。これだけは!というところはしっかり教えて、考えさせたい問題は数を絞って、じっくり考えさせていた。その結果、思考を深めることができたし、子どもたち同士の対話の時間が増えた。教師は評価する項目を絞って計画を立てることができていたので、評価にかかる時間についても削減できていたと思う。後でまた復習する時間に覚えているか確認するのだから、ここで何度も復習しないで、次の単元との関連を図ることを念頭に置いていた。精選って、本当に素敵なことだと思った。こんな風にできたら、大幅に上回ることを回避できるのではないだろうか?
目の前の子どもたちに最適化された指導計画を立てて、指導していくことで、教師も子どももだいぶすっきりするのではないかなあ。あれも、これもを積み重ねていては、持続可能な教育はできないのではないか。今までを信じたいし、自分のやってきたことに自信をもちたいだろうが、ここは、大きな変革の場面である。緊急提言に乗っかってみるのもいいかもしれない。
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