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紐緖部長とぼくの話 9

割引あり

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      9

 一夜明け、文化祭当日の朝。
 部室へ向かう足どりは鉛のように重かった。
(部屋に入ったら、まず頭を下げよう。何か言われる前に……。それから、それから……)
 普通に考えて神聖な実験室を私欲で汚した罪は謝ったくらいで許してはもらえないだろう。
 部長のシベリアブリザードのような視線、そして落雷のようなお叱りを想像するだけでマゾヒステリックな悦びが━━。
 こほん。あ、いや……兎も角、あのような一時の気の迷いで最早修復不可能な程嫌われてしまったかと思うと、気分は無限遠の彼方へまで落ち込んでゆくのであった。
 だが、部長の反応は些か予想外なものであった。
「おはよう。安院くん」
「えっ……!? あ……、お、おはようございます。部長……?」
 脚を組んでビジネスチェアに腰かける部長は、意外なほど普段どおりで拍子抜けしてしまった。いや、あえてこう言ってしまっていいならほんの僅かだがハイテンションにさえも見える。
 今日が文化祭だからか?
 いや、そんな人じゃない。よく「こんなイベントなんて下らないわ。校舎ごと爆破して中止に追い込んじゃおうかしら」などと物騒すぎる冗談を飛ばしているお方だ。
 だがなんだろうか。今日の部長はなんだか……ほんのりといい匂いさえ感じられる。珍しくコロンでも使っているのだろうか?
 そんな部長を前にあっけにとられたためか、あらかじめ考えた謝罪の口上は頭の中から吹き飛んでしまっていた。
「き、昨日はその……すっ……すいませんでしたっ!」
 とにかく頭を深々と下げる。カミカミだったが、辛うじてこれだけ言うことができた。
 頭頂部に突き刺さる視線が痛い。恐る恐る顔をあげてみると、部長はこめかみに手をあててふっとため息をついていた。 
「安院くん? この装置……操作は一人でももう大丈夫よね?」
「へ……? は、はい……」
 そりゃあ、あんな使い方したからには……と思ったが、流石に胸の内にしまっておいた。
「それなら文化祭の仕事とかは全部あなたに任せたわよ」
「ぶ、部長は……?」
「私? 私は奥で実験やってるから。今日は時間のかかるやつを進めておきたいの。なかなか無いのよ、一日をフルに使えるのは」
 そのくらいはお安いご用だ。だが━━。
「あ、あの……」
「なにか質問?」
「お、怒ってないんですか……?」
「なによ、怒ってほしいの?」
「い、いえ……」
「私、怒ってるように見える?」
「えっ?」
「怒っているように見えるのかって聞いてるの」
「い、いえ……」
 口調こそ高圧的だが、見た目ほど怒ってはいないように思える。あれだけのことをしでかしたのに……。
「……むしろ、なにか良いことでもあったのかって風に見えますが」
 つい無茶苦茶な言葉が口をついた。
 気のせいか、部長の頬には一瞬だけ赤みが差したようにも見えた。次の瞬間にはいつもの鉄面皮に戻っていたが……。
「安院くん。あなた、もうすぐ理系文系のコース選択を提出する時期よね。どっちにするの?」
「へ……? なんですか、藪から棒に……」
「いいから答えて。あ、うちの部に籍を置いてるんだもの、もちろん理系よね?」
「そ、そりゃあそうですが……。でもなんですか、突然……」
「フッ……安院くん、ちょっとゲームをしない? 暇潰しにひとつ問題を出してあげる。回答期限は明日、文化祭が終わるまでよ」
「え、えええ……?」
 僕は困惑した。
 部長のことだ。リーマン積分に対するルベーグ積分の有用性について論じよ。とか、カントールの対角線論法を使って実数全体が有理数や自然数全体より大きい事を証明せよ。とか無理難題を言ってくるに違いない。
「フフっ……」
「な、なんですか部長……?」
「身構えなくてもいいわよ。単なる謎かけ。大学レベルの問題なんて出したりしないわよ」
「えぇ……」
 それはありがたいが、部長はぼくの心を読む機械かなにかでも持っているのだろうか?
「安院くんがよーく頭を捻れば、必ず分かるから」
「それで、どういう問題なんです?」
「いい? 一度しか言わないからよく聞いてね。『831947 71474731 4197 792361172343237197 ?』」
「なっ……!? ま、まるで意味がわかりませんっ」
「単なるありきたりななぞなぞじゃつまらないでしょ? 問題文は簡単な暗号よ」
「せめてヒントを!」
「ダ・メ。若いうちからそんなのに頼っちゃ。まずはよーく考えてみなさい。どうしてもわからなかったらヒントを出してあげる。どうせ一日座ってるだけでヒマなんだから」
「そ、それで……正解したら何か貰えたりするんですか……?」
「え……考えてなかったけど。……そうね。私があげられるもので安院くんが欲しいものならなんでもいいわ。いい? 一つだけよ、一つだけあげる。じゃあね」
 そう言うと部室の奥へと引っ込んでいった。
(な、なんだっていうんだよ……。本当に……)
 理解が追い付かない。ぼくの頭の中には無数の疑問符が乱舞していた。
(でももし正解したら……。部長とあんなことや、こんなことも……!)
 しかし同時に、ぼくの心の奥底にはふつふつと闘志が沸き起こっていた。
 我ながら単純と言うほかない。

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