舞台「男性失格」を観て…
人は、世界を、自分のモノサシで整理したがる生き物なのかもしれない。何か得体の知れない感情や事象に直面したとき、どうにかそれを成り立たせるための理屈を、自らの主観で築き上げようとする。
そして、そこで浮かび上がる異質な存在を排除するために、周囲に共感を求めて群れていく。さらに、異質とされた何かは、孤立を深めていく。
こうやって差別や偏見や、いじめが生まれていく。
結局、答えを求めても、見つからない。はじめから正解なんてないのに、なぜに見通す力を得ようとするのか。
今、目の前で起きていることを論理的に説明することが科学の役目であるとするならば、人の心理変化を科学的指標で計ろうなどという試みは、なかなかに挑戦的である。
少し話を変えよう。
世界は、もとより混沌としている。色分けをして、区別をして、同じ向きに揃えることが、正しい生き方だとは思えない。
ここで敢えて科学的指標を持ち出すが、古くからエントロピーという考え方がある。乱雑さを表すこの物理量は、世界の混沌さを説明するのには欠かせない考え方だ。
熱力学における簡単な例で説明すると、お湯と水とが混ざり合った後、何らのエネルギー操作をも伴わずに再び元の状態、つまりお湯と水とを区別した状態に戻すことは出来ない。この非可逆な変化を、エントロピー(乱雑さ)の増大という形で説明されている。
人の生き死にも例に漏れず、このエントロピーによる考察が試みられた。シュレディンガーが考えた生命維持の仕組みから、ゆらぎと自己組織化によって説明しようとする理論まで発展しており、議論は尽きない。ここではこうした考え方を提示するのみに留め、詳細な解説は別の文献に譲ることにする。
この議論の行く先を改めて定義すると、組織の秩序維持は、実のところ、このエントロピーとの葛藤に委ねられている。私はそう捉えている。
生命の維持活動は、エントロピーに係る自然法則に直面しながらも、外部とのエントロピー交換を通じて、自己の定常性を維持し、均衡を保とうとする活動そのものである。これが俗に言うホメオスタシスというものである。
ここまで風呂敷を広げたところで、気付いた方もいるかもしれない。
この世にある無機物・有機物、分け隔てなく全てに、それぞれ固有のイロがあり、それが混じり合って、全体としてのイロを構成している。
その多様性に寛容な組織であるならば、無理に区別したり仕分けすることなく、ありのままを受け入れることが可能なはずだ。逆に、そうでない組織においては、目先の「純化」には成功するかもしれないが、それを維持するために常に崩壊との闘いが待っている。
別に、2つの組織の有り様を持ち出して、対立を際立たせようと思って書いているわけではない。どちらの生き方も、それはそれで価値観の差であるのかもしれない。
であるとするならば、価値観の違う相手を非難するより前に、自らの存在意義を問い、悩み、時には苦しみながらも、支え合える仲間を増やして、力強く生きる術を手に入れることの大切さに気付くべきである。きっと、同じような悩みを持った仲間がたくさんいる。
悩みとともに、その側面をも超えた繋がりを手にしたとき、単純な物理法則では説明の出来ない絆が生まれるのだと思う。人の痛みや複雑な心理状況を感じ取り、邪険にせず、あたたかく包み込める優しさを身に付けたいと切に願う。こうした人間の想像力が持つ可能性を信じて、今日も生きて行きたい。
実に、この多様な生き方、対立そのものも含めて、すべてが世界を形成している。真のダイバーシティは、決して造られた予定調和ではなく、個々に沸き起こる、また個と外界との間に生まれる変化とともにあるのであって、分け隔てなく生きる権利を有するという文化的価値観と現実との間の矛盾を調整しながら、成立していくものである。
生きるとは、そうした闘いの記録であると言って相違ないと思う。