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『ハレム』

王朝の存続のための”合理的”システム

2022年に全国5紙(読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、日経新聞、産経新聞)すべてに書評が掲載された書籍2冊のうちの1冊です。(もう1冊は『だまされ屋さん』☜クリックすると書評ページに飛べます)。

ハレムはハーレムという方がよく聞く名称かもしれません。著者の小笠原氏がいうように、多くの人が、

イスラム世界の専制君主が多数の女性を隷属させ、官能と淫蕩、放埒のかぎりをつくす場

「はじめに」より

と思っていて、私(以下評者)もそうでした。本稿のタイトルに使っている書影の一部(数多くの裸体の女性が侍っているイメージ)を思い浮かべた人も多いかもしれません。

しかし、小笠原氏によると、こうしたイメージは、

信憑性の低い情報に由来する、多分に偏見に満ちたもの

「はじめに」より


なのだそうです。実際には、

王朝の存続という絶対的な目的のため、極端なまでに合理にもとづいた箍をはめたのが、ハレムだった。

「おわりに」より。太字は評者

「極端なまでに」という修飾は、自由、平等、人権といった近代的な発想に慣れた現代人の視点から見ると、ということになります。本書のだいご味の一つは、いわば、我々が好奇と偏見の視線を向けるハレムを成立させた"合理性"を解き明かしてくれることにあると思います。

そこで、この合理性をピックアップします。とはいえ、この世界は評者は全くの素人ですので、ご関心のある方は、本をご購入になって確かめてください。

なお、本書のハレムの記述はオスマン帝国のハレムが中心ですので、ここでの記述も約600年続いたオスマン帝国(1299頃~1922年)が舞台です。

ハレムが置かれたトプカプ宮殿

兄弟殺し=後継者争いをなくす

王子たちの中から、次のスルタン(専制君主)が決まると、他の兄弟たちは処刑されます。

この慣行は、一五世紀後半のメフメト二世(位1444〜46、51〜81年)の治世に、「混乱を未然に防ぐ」という理由で法令集に明文化されたといいます。

イスラム法においては、自由人のムスリムを裁判なしで処刑することは認められていない。だから兄弟殺しの明文化は、国家があからさまにイスラム法の規定を踏み越えた事例といえよう。

第四章より

この記述から、イスラム法よりも王朝の存続が優先されていたことがわかります。

もっとも多くの王子が処刑されたのは、ムラト三世の死去後、メフメト三世の即位時である。このときには、一九人もの幼い弟たちが処刑されている。幼い王子たちの葬列に、イスタンブルの人々はおおいに嘆き悲しんだという。

第四章より

とあるように、この制度はさすがに当時の人たちにとっても耐え難いところがあったようです。

ところが、これほど非情な処刑を行ったメフメト三世(位1595~1603)の後継であるアフメト一世(位1603~17)は、弟のムスタファを処刑せず、ハレムの奥深くに幽閉しました。アフメト一世は即位時に13歳と幼く、子供もいなかったため、後継者が途絶える懸念から、弟を生かしておいたのです。

そして、これ以降は、オスマン王家の王位継承は、父子相続から年長者相続へと変化したといいます。スルタンの弟は、以後、ハレムに幽閉されることとなりました。また、スルタンの王子も、基本的には外出することなく、即位するまでハレムのなかだけで過ごすようになります。これは、「鳥籠制度」と呼ばれました。

160年続いた兄弟殺しの伝統も、王朝の維持・存続という目的にかなわなくなれば変更されたのでした。

宦官の重用=女性管理のため

ハレムを管理するのは、宦官(去勢した男性)でした。その理由は、

生殖能力を制限されているため、女性たちの管理者としてふさわしかったからである。

第五章より

というわけですから、これも冷酷なまでに合理的といえるでしょう。

ハレムの女性は、王族の身の回りの世話から、洗濯や浴室、竈の管理にいたるまで、ハレムを維持するための多くの仕事を請け負いました。何より気に入られればスルタンの夫人や寵姫に取り上げられますから、管理する男が生殖能力を持っていては、トラブルの元というわけでしょう。

イスラム法では、イスラム教徒に対する去勢は許されませんでしたので、宦官はイスラム世界の外から”輸入”された奴隷でした。

当然、去勢には手術が伴います。

抗生物質のない時代、手術の死亡率は非常に高く、およそ半数、熟練した術者の手であっても四分の一が死亡したという。このため宦官は高価な商品となり、通常の奴隷より、およそ二倍から三倍の価格で取引された。

第五章より

といいます。

オスマン帝国での宦官の組織的活用は、15世紀前半にはじまり、白人の宦官と黒人の宦官が役割分担していました。

その役割も時代によって変遷するのですが、1574年に白人宦官長の職務の一部を分離させて、白人宦官長がスルタンの生活の場である内廷を、黒人宦官長がハレムを統括することになったといいます。白人宦官と黒人宦官の分業制が完成したわけです。

黒人宦官は、ハレムの拡大とともに、その存在感が高まります。ハレムがおかれたトプカプ宮殿が拡大に拡大を重ね、ついには現状と同様の規模になったムラト三世(位1574~95年)の時代には、ハレムで働く黒人宦官の数は300から400名となり、白人宦官の10倍もいたといいます。

男も女もみんな奴隷=叛意の排除

宦官は奴隷の身分だったと書きましたが、実はハレムの女性も奴隷でした。

奴隷というのは金で買われてきた身分ということです。ハレムの女性のような高級な奴隷の買い付けは、奴隷市場ではなく、商人の邸宅で行われたといいます。

ハレムに購入される女性は、容姿やふるまいについて、欠点がないことが求められる。すこしでも瑕疵のある奴隷は、ハレムに入ることができなかった。

第三章より

これ以外にも、戦争捕虜として捕まえられた女性奴隷のルートや、有力者から献呈されるルートがあったといいます。有力な臣下やスルタンの母親の母后や王女たちは、子飼いの女奴隷を献上したほか、諸外国から外交の贈り物として献呈されることもあったといいます。

ところで、イスラム法では、イスラム教徒(ムスリム)や帝国臣民を奴隷とすることは許されていませんでした。このため、ハレムに入る女奴隷も宦官同様、イスラム世界の外からの”輸入品”でした。ギリシアやイタリアなどの地中海出身者が多かったといいます。

つまり、宦官も含めて、イスラム専制君主制を支えるハレムの住民たちは、非ムスリムの、帝国外から連れてきた奴隷なのでした。

この圧倒的な身分差と兄弟殺しの慣習を合わせて考えると、スルタンに叛意を持ちうる者をあらかじめ徹底的に排除するシステムのように評者には思えます。

誰にも開かれた栄達の道=忠誠への報償

もっとも、宦官や女奴隷が文字通りの奴隷的扱いを受けていたわけではありません。スルタンに気に入られて、強大な力をふるい、富を蓄積する者もいました。スルタンの夫人や寵姫となれば、スルタンを意のままに動かし、スルタンの母親である母后になって政治権力をほしいままにするケースもあったのです。

その事例の一つが、スレイマン一世(位1520〜66年)の寵姫ヒュッレムです。

オスマン帝国の歴史上、もっとも名高い女性といえば、彼女をおいてほかにはいないだろう。壮麗王スレイマン一世の寵姫、ヒュッレムである。

ウクライナに生まれた彼女は、クリミア・ハン国の襲撃により奴隷となり、スレイマンが一五二〇年に即位してまもなく、彼のハレムに入った。ヒュッレムは、たちどころにスレイマンの心をつかみ、寵姫としての地位を獲得する。スレイマンは彼女のためにハレムを増築し、つねに手元に置いたのだった。彼女にたいする異例の寵愛に、彼女が魔術を使ってスレイマンをたぶらかしたのだ、という噂もたったほどである。スレイマンの母ハフサが亡くなり、寵臣イブラヒムが処刑されると、宮廷におけるヒュッレムの権勢を遮る者はなくなった。それまでのオスマン王家の慣例では、いちど御子を産んだ寵姫はふたりめを宿すことを許されなかったが、ヒュッレムは実に五男一女をもうけ、その地位を盤石にしている。

「コラム3」より

スレイマン一世の時代まで、スルタンは政治と生活の場であるトプカプ宮殿と、ハレムがある旧宮殿を行き来していました。しかし、スレイマンはトプカプ宮殿のハレムを増築し、旧宮殿に住んでいたヒュッレムを呼び寄せました。トプカプ宮殿のハレムはこの後、増築を重ねることになります。

宦官では2人の栄達者の事例が紹介されています。

白人宦官では、歴代の白人宦官長のうち、もっとも権勢を誇ったとされるガザンフェル・アアです。

イタリア・ヴェネツィア出身のガザンフェルは、少年時代の1559年、父に会うためにアルバニアを目指して船に乗っていたところ、オスマン海賊によって拿捕され、奴隷として売られます。

セリム王子に仕えることになり、セリムが即位するときに、宦官になることを勧められます。これに応じて、ついには白人宦官長にのぼりつめ、後継のムラト三世やメフメト三世の時代も含め、その地位を20年も維持します。

ガザンフェルは隠然たる影響力をふるった。ハレムの奥深くにこもるムラト三世に上奏するには、ガザンフェルに取り次ぎを頼まねばならなかったからである。ガザンフェルの活動は宮廷にとどまらなかった。彼は、スレイマン一世以来久方ぶりに親征したメフメト三世に付き従って、その進退を左右する重要なアドバイザーの役割を担ってもいる。

白人宦官長は、宮廷関係者の宗教寄進を統括する立場にあり、その実入りも莫大であった。そのなかでもっとも重要なのが、イスラムの聖地メッカとメディナにかかわる宗教寄進である。この両聖都の運営のため、オスマン帝国各地で大規模な財源が宗教寄進に設定されていたのだ。

宗教寄進は、同時にその統括者にも実入りをもたらすものであった。それによって得た財力を背景に、ガザンフェルは自身も宗教寄進を多数、設定している。そのなかでももっとも有名なのは、イスタンブルの水道橋に隣接したガザンフェル・アア学院である。

彼の財力はまた、芸術家のパトロンになることを可能にした。多くの詩人・文人が、彼のために作品を献呈している。

第五章より

同じ時代に活躍したのが、黒人宦官のハベシー・メフメト・アアです。

彼は、エチオピア出身で、奴隷としてヨーロッパ人に購入されたのですが、

ヨーロッパへの航海中、彼が乗った船はムスリム船に拿捕され、ハベシーはエジプト総督のものとなった。そこから彼は、王子時代のセリム二世のもとに贈られ、セリム王子に仕えるようになったのである

第五章より

と、映画かドラマのような曲折を経て、セリム王子のもとにたどり着きます。そして、後継のムラト三世によって黒人宦官長に引き上げられ、宦官としては異例なことに、ムラトの好意で旧宮殿のそばに自邸をかまえることを許されました。

母后も権勢をふるいました。

ムラト四世とイブラヒムの母后として、さらにはメフメト四世の祖母として長らくハレムに君臨したのが「もっとも偉大な母后」と呼ばれたキョセムです。彼女は幼いスルタンに代わって、実質的な摂政として国政を取り仕切ったといいます。

ハレムはスルタン以外は奴隷出身者ばかりですから、その限りで身分差別がなかったという逆説が成立するのかもしれません。スルタンへの忠誠や奉仕を争うことで、等しく栄達の道が開けているのですから、スルタンに牙を剥く動機は持ちにくい。これも、王朝の維持を目的とした合理的なシステムの一環ともいえると思えます。

読みどころたくさん

「王朝の維持のための非情なまでの合理的制度」という切り口でハレムを見てきましたが、このほかにも、スルタンに仕えた小姓や唖者や小人の役割、ハレムの中で演じられた音楽や芸能、ハレムを離れた後の女性の生活ぶりまで、興味深い事実やエピソードが随所にちりばめられています。

宦官も女奴隷もそうですが、なぜ唖者や小人が重用されたのか、現代の価値基準を通してでなく、まずは虚心に見てみることが大切だと思いました。

時間も、空間も、そこに働いている力学も違っているとはいえ、「ハレム」も我々が生きる世界同様、極めて人間臭い空間だったことを、全体を通して教わった気がします。事前に抱いていた淫靡な印象が消えていたことは記しておきたいと思います。

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