『街とその不確かな壁』
すでにして伝説
2019年以降で、主要全国紙(読売、朝日、毎日、産経、日経)のすべての書評欄に、複数の書籍が紹介された著者は村上春樹氏ただ一人です。もう一冊は2020年刊行の『一人称単数』です。全紙に書評が載った本は2023年までの5年で21タイトルしかありません。
秋のノーベル賞シーズンになると、「その瞬間」を待つハルキマニアと呼ばれる人たちがテレビニュースの風物詩になってずいぶん経ちます。私(以下、評者)がロンドンに住んでいたころ、現地の大型書店の入り口に『ノルウェイの森』(当然、英語版)の特集コーナーができていたのを思い出しもします。
本作は、その世界的ベストセラー作家が43年越しに完成させた長編小説です。あとがきによると、その経緯は
ということですから、すでにして伝説をまとっています。
とはいえ、評者はハルキマニアでもなければ、文芸マニアでもありません。5紙に書評が掲載された本の感想はnoteに必ず書く、という自分で決めたルールに従って、「こう読んだ」というところを書き記すだけです。
100人いれば100通りの読み解きがあって当然ですし、少なくとも論理的にはそれが正しいことはあり得るのです。
3人の「きみ」
本作は、主人公の「私」の視点で描かれるのですが、1980年のオリジナルに依拠した第一部と、43年後に新たに追加された第ニ部、第三部で、二人称の「きみ」が指し示す相手が変っていきます。「きみ」と「君」も使い分けていて、両方の出現数は以下の表のようになっています。
「恋人」は現実の世界での「私」の初恋の相手です。「街の少女」は「恋人」が「本当の自分」と呼ぶいわば分身で、「壁に囲まれた街」に住んでいます。
(評者が便宜的に「街の少女」と表記するだけで、こういう呼称の人物が小説に登場するわけではありません)
「私」は突然失踪した「恋人」の面影を追って、「壁に囲まれた街」に住むことになるのですが、住民である「街の少女」とは、恋愛関係になりません。「恋人」を「きみ」、「街の少女」を「君」と表記する使い分けは、心理的距離を示しているのではないか、と考えます。
「ひとつになりたい」
ただ、43年後に書かれた第二部では、3人(「恋人」、「女店主」、「少年」)に「きみ」が使われています。とすると、別の視点も考える必要がありそうです。
「恋人」は第一部で、「私」に
と打ちあけています。
第二部では、親しくなったコーヒーショップの「女店主」が「きみ」と呼ばれます。ただ、それは彼女への性的欲望を「恋人」への追憶と重ね合わせるシーンに限っています。それ以外では「君」と表記されています。
第三部になると「私」が「きみ」と呼ぶ相手は「壁に囲まれた街」に移住したいと熱望する「少年」だけになりますが、その「少年」から「私」は、
と懇願されます。
つまり、「『私』とひとつになる」というモチーフを共有している人物の表記が「きみ」だと、読めるのです。
「壁」とは何なのか
「国家システム」としての壁
タイトルにもなっている「壁」も、謎めいた言葉です。
「壁」といえば、村上氏には有名な演説『壁と卵』があります。2009年、イスラエルでの文学賞受賞式での発言です。補助線になりそうなので、やや長いですが引用します。
この「壁」は暴力装置としての国家権力や国家システムを意味しているのは明らかでしょう。
本作で最初に「壁」について語るのは、「壁に囲まれた街」の門を守る「門衛」です。第一部で「門衛」は「私」にこういいます。
「門衛」の目に映っているのは、「壁と卵」のスピーチにあるような意味での壁だと思います。「署名したり血判を押したりしない契約」は、社会契約の暗喩のように感じます。
これに対し、「私」の「影」は次のように説きます。
想像から生まれた壁
「壁に囲まれた街」では人は影を持ちません。「私」と「影」は切り離されて生きています。2人?は街から逃げ出そうとします。それに気づいた「壁」が警告を発します。本作で「壁」が話すのはこの部分を含むシーン以外にありません。
それでも「私」と「影」は、自分の心を信じて、壁に突入します。すると、硬い煉瓦でできているはずの壁は通り抜けることができたのです。
ここには、意志と信念があれば、国家権力やシステムの壁を打ち破れるという寓意が込められているようにも読めます。
しかし、本作はそう単純ではありません。なぜなら、「壁に囲まれた街」は、「恋人」が「私」と高校生のころに語り合いながら造りあげたイメージが実体化したものだからです。「壁」は「卵」が生み出したという設定なのです。
「私」と「影」の会話の中にこういうくだりがあります。
フランスの哲学者ミシェル・フーコーが、『監獄の誕生』の中で、近代国家の権力の特徴として、
と述べているのを想起しました。
第一部に示されている「壁」は、国民主権によって形を与えられた国家が、国民のコントロールを超えて国民をついには包囲してしまう、そういう近代国家の暗喩なのではないでしょうか。
魂が逃げ込む先としての壁
第二部で壁を語るのは、「少年」です。
無口な「少年」は「私」との筆談の中で、「私」から聞かされた「壁に囲まれた街」の「壁」が作られた目的を
と書きます。「少年」は一種の比喩として疫病といっています。「私」が「それは『魂にとっての疫病』を含むのか」と問うと、「こっくりと確かに」肯きます。
「少年」は読んだ本の内容をそっくり記憶し、任意の年月日の曜日をすぐに判断できる特殊能力の持ち主なのですが、社会性に欠け、家族や地域社会から疎外されています。そして、「壁に囲まれた街」にこそ自分の居場所があるとの思いを募らせます。
現実世界に自分の居場所がない「少年」にとっては、「壁」の中は自らの魂が救済される場所なのです。
架空の本の意味
そう考えると、「少年」の愛読書のリストも意味深に見えてきます。
『アイスランドサガ』も『泉鏡花全集』も『家庭の医学百科』も、実在する書籍のタイトルですが、『ヴィトゲンシュタイン、言語を語る』というタイトルの本は、実在しません。
これが2度とも単なる誤記であることはまずないでしょう。作家はあえてこの架空の書籍タイトルに、特別な意味を持たせたのだとにらんでいます。
ヴィトゲンシュタインは、1889年4月に、オーストリア=ハンガリー二重帝国の首都ウィーンに生まれた哲学者(言語学、論理哲学)です。大富豪の家庭に生まれ育つのですが、
という人物でした。この不遇の哲学者に似せて「少年」は創作されたのかもしれません。
その哲学は難解なことで知られますが、入門書の記述を借りると、
「語りうること」は「世界に生じうること」
「少年」には特殊な能力がありました。彼をよく知る登場人物はこう言います。
「少年」は、「壁に囲まれた街」のイメ―ジを自己の内部に転写し、創り直し、そこに移り住みたいと望み、実際に希望を叶えます。「『語りうること』は『世界に生じうること』」という哲学が、「少年」の中では現実のものとなっているように読めるのです。
「少年」は「壁に囲まれた街」に行くために、突然失踪します。彼を探すために東京から帰省した「少年」の兄(医学生です)は、「私」にこう述べています。
第一部で見た国家や社会を示唆するモチーフは後景に退き、もっと個人的で内面的な「壁」が第二部でのテーマになっています。
62章の「きみ」と「壁」
以上述べてきたような変化を象徴しているのが第二部の最後に据えられている62章だという気がします。
本作は全体が謎めいていますが、その中でも62章はとても不思議な章です。「私」は現実世界から壁の向こうに突然、移動します。
ところが、壁を乗り越えた先は、「壁に囲まれた街」とは違いました。「私」の内部に、(少なくとも)もう一つの「壁」があったのです。「私」はそこで時をさかのぼり、10代の体に戻り、高校生時代の「恋人」と"再会"を果たします。これが、「恋人」が登場する、そして、「きみ」と呼ばれる最後の場面でもあるのです。
伏線はありました。60章と61章では、「私」は「少年」の「抜け殻」に噛みつかれる夢を見たり、「女店主」と互いの想いを確かめあったりします。20年以上に亘って「恋人」への記憶に縛られてきた「私」の内部で、何かが変わりつつあったのです。
また、「気がついたとき私は壁の向こう側にいた。あるいは壁のこちら側に」という記述は、「私」の内部で現実と非現実の境があいまいになっていることを示唆しています。
それは「少年」の兄の言葉を借りれば、水面下の「私」の意識が、時間の推移や環境にあわせて、本人にも気が付かない形で、徐々に形を変えたからではないでしょうか。本人すら気が付かないままに姿を変えていくから、「不確か」なのだと思います。
地中の迷路を巡る秘密の暗闇の川
「きみ」と「壁」の意味をめぐる変遷は62章でいったん束ねられて、短い第三部に集約されていきます。そのように評者には読めました。
舞台は再び「壁に囲まれた街」に戻ってくるのですが、そこでは、「私」と「少年」は奇妙な方法で、実際に「ひとつに」なります。読者によってはそこに同性愛的な隠喩を感じるかもしれません。評者はむしろ、「ひとつになる」ことに性的な意味を持たせないための仕掛けではないかとも思います。「少年」の性別を変えると、通俗的な物語になってしまう気がするからですが、あまり自信はありません。
そして、「私」も「少年」も、長く苦しんできた現実から"解放"されることが示唆されています。
本作は、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と共通するモチーフもあるようですし、ハルキマニアにとっては、もっともっと深い読み解きができるのだと思います。
最後に本作を貫くコンセプトとなっているように思われる記述を第二部の冒頭から、引用しておきます。
5紙に紹介された本
2023年に入って5紙に書評が掲載されたその他の本の紹介です。
また、2019年から2022年までに5紙の書評に紹介された書籍は以下に紹介しています。
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