青二才
自分の中で「働く」という行為がものすごく価値のある事と捉えられていると気づく。あと、「世間」というものに対しても。
今日も何もできなかった。という負い目の感情を紐解いてみると、「同級生は皆働いているのに」「若いうちにできることがあるのに」という言葉たちが浮かぶ。noteのプロフィール欄に書くくらい、休学という普通の世界からは外れたことを二年もやっているのに、まだ他人と比べ自分の不足を際立たせ自分を叱ることがやめられない。
でも、これってよく考えてみると、世間と外れることが嫌なんじゃなくて、今なにも頑張っていることが無いことへの、焦り、不安、恐怖、嫌悪だと気づく。何もしていない自分がすごく嫌い。私はふらふらすることやぼーっとすることは好きだけど、何もしないということは苦手で自責を生むようだ。ニートに向き不向きがあると聞くが私は向いていないらしい。
仮に、ニートを経済的に生産性を持たない人、端的に言うとお金を稼がない人だとする。お金を稼ぐのに「しごと」をしなければならないが、しごとはお金を稼ぐ、その一つだけではないと思う。ごはんを作ること、掃除をすること、手仕事みたいな梅仕事とかもそうだし、生活の中には自分のための、誰かのための「しごと」がたくさんある。そういった意味で言うと、「しごと」とは生業であり、その言葉の方がしっくりくる。私は、何か自分にできる「しごと」を見つけて取り組むニートには為れる。(これを考えると、近年の潮流における「生産性」の意味が「お金を稼ぐこと」の要素を多く含む気がしていて、なんだかお金を稼がない人は生きている意味がないと言われているみたいで、気に食わない)
自分にできる「しごと」は文章を書くことが一つある。友達に伸ばしていったらいいよ、と褒められたこと。大学で受けた文章の授業が面白かったこと。「書く」という営みは私を解き放ち豊かにしてくれる。なんだか恥ずかしいな。
俵万智さんの「言葉を磨く」という表現を持ち続けたいと感じた時があった。書くということを続けたい。世の中に文筆家は無数にいるけれど、自分という感覚を持ちながら文章を書くというのは自分にしかできない。自分という感覚×文章を書くという行為=唯一無二 これはすべてのことではあるけれど、なんだかしっくりくるので認めておく。
持てる言葉が多いことに憧れる。いわゆる語彙力。わりかし感覚で物事を受け取る性分だから、ないものねだりかもしれない。構造や論理に弱い、だから理解できるようになりたい。感覚をそのまま泳がせていることも大切だけど、物事の仕組みに対する好奇心がある。私の言語化への欲はこの好奇心から来ていると思う。もやもやを分かりたい。気づきを言葉にしたい。人と思考を交わして深めたい。めっちゃ楽しい。だからシェアハウスに住みたい。
人と対話をしていて、返したい言葉の出力速度が速い方ではない。けっこう熟考して返すときが多々ある。対話の楽しさは、リアルタイムで化学反応を感じられることにある。私の速度でも、十分感じられるから対話は大好きだ。
文章を組み立てるのに時間がかかる私にとって、書くという話し方の相性がいいと気づいた。いつも頭の中がぐるぐるしているものを書くことで整理する。話下手が書き下手とは限らない。
みんなからお題をもらって、一日一本書くとかやってみたいな。大げさに言って連載的な。ほぼエッセイだし随筆なんだけど。話の終着点とかあまり気にせずに。ドキドキするね。
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