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真珠湾攻撃とは何だったのか

〇真珠湾攻撃とは何だったのか
 昨年12月8日は、日本海軍機動部隊の真珠湾攻撃から80年ということで、関連番組がさかんにテレビ等で放送された。私には目新しいものはなく、退屈な番組だった。そこで、私なりの真珠湾攻撃についての感想を書くことにする。
 昭和16年11月26日午後1時半、エトロフ島のヒトカップ湾から空母6隻を主に艦船28隻が、真珠湾めざして出港して行った。運命のハルノートが日本に届いたのは、翌27日であった。4年前、コロナで一躍有名になったプリンセス号に乗って、北海道・カラフト10日間の船旅に出かけた時、釧路を午後5時に出港した船は、翌早朝クナシリ・エトロフの間を通ったのだが、あいにくの天気のため、両島は見えなかった。が、昔、海軍の機動部隊がこの辺を通ったのだろうと海を見ながら思ったのだった。真珠湾攻撃は日本史上最大の愚策と言う人もいれば、世界史的快挙という人もいる。人それぞれの意見があるだろう。結果が出ている今、真珠湾攻撃の内容について、あれこれ論じても意味はない。


〇飛んで火に入る夏の虫
 アメリカのルーズベルト大統領が真珠湾攻撃を知ったのは、その15分後だったという。ルーズベルトは、日本の攻撃を予想していたので驚きはしなかっただろうが、真珠湾とは思わなかったらしい。しかし、彼はニヤリとしたに違いない。ルーズベルトは大統領選挙の時、戦争でアメリカ人の若者の血を流すことはしない、ヨーロッパの戦争には介入しないと公約して当選したのである。アメリカの世論は、当時ドイツと戦争していたイギリスを最大限援助するのは賛成だが、戦争に介入するのは反対だった。ルーズベルトは早くからナチスドイツは軍事力で倒す以外ないと腹をくくっていたようだが、選挙の公約・世論の動向を見て、戦争には参加できなかった。そこに日本軍が真珠湾を攻撃してくれたのである。願ったりかなったりである。議会でルーズベルトは「我々は日本と平和のための交渉を続けていた。それなのに日本は一方的にだまし討ちをやった」と苦虫をかみつぶしたような顔をして演説したのだった。世論は「リメンバー パールハーバー」を合言葉に一気に爆発したのだった。

 中国の蒋介石は、日本の攻撃の第一報を聞いて、狂気乱舞した。当時、泥沼の日中戦争はダラダラと続き、双方ともに決定力を欠いていた。それが日本がアメリカと戦争を開始したのだから、蒋介石にとっても願ったりかなったりである。なぜなら大国アメリカに日本が勝てるはずもなく、やがて日本は自滅するであろう。蒋介石はそれを寝て待てばいいだけの話である。毛沢東は当初から、日本軍に広い中国を支配するだけの力はなく、日中戦争が長引けばいずれ中国から撤退せざるを得ないだろうと思っていた。それが日本がアメリカと戦争を始めたことによって早まるだろうと延安でのんびりしていた。

 イギリスの首相チャーチルは、日本の攻撃を知って人生最良の日と大感激だった。アメリカが第二次大戦に参加することによって、そのうち日本が東南アジアから撤退することになれば、イギリスの植民地は再び復活する。それよりも、何よりアメリカ軍が直接ドイツを攻撃してくれれば、イギリスの負担はそれだけ楽になる。イギリスの生命線であるアメリカからの輸送もより安全になる。なぜなら、ドイツのUボートをアメリカ軍が直接攻撃できるので、イギリスの余力をアジアに回せるからである。チャーチルは日本軍の攻撃の第一報を聞いて、ルーズベルトに電話をして「これで我々は同じボートに乗ることができた」と喜びの声を伝えたという。つまり、アメリカとイギリスは運命共同体になったということである。アメリカの大戦参加を熱望していたチャーチルらしいと言える。

 ソ連のスターリンはどうしたか。昭和16年6月、独ソ戦が始まった。ドイツが言うところのバルバロッサ作戦である。ヒットラーは当初、ソ連戦は3か月でカタがつくと思っていた。ところが、10月頃になると進撃の速度は徐々に遅くなり、とうとう12月8日、つまり日本が真珠湾を攻撃した日、ヒットラーはドイツ軍に進撃の停止を命じた。体制を立て直そうとしたのである。しかし、アメリカから大量の武器の援助を受け、体制を立て直したソ連軍はドイツ軍に攻勢をかけ始め、ドイツは後退していった。その間の事情は日本陸軍の幹部にも刻々と入っていたはずだが、石頭の陸軍幹部は軽視したのである。そんな時、スターリンは日本が真珠湾を攻撃したとの第一報を聞いて、喜色満面で側近とウォッカで乾杯したことだろう。なぜなら、ソ連は西でドイツと戦い、東では日本軍に備えなければならなかった。日本がアメリカと戦争したとなれば、東で日本軍に備える必要はなくなり、全力でドイツ軍と戦えるのだから、スターリンが喜ぶのも無理はない。ヒットラーのことは当時の秘書が日記に書いていて、ヒットラーは日本軍の攻勢の一報に接して飛び上がらんばかりに喜んだという。それはそうだろう。日本とアメリカが戦争すれば、ソ連・イギリスへの援助は減るだろうし、ドイツとアメリカが戦争になっても、ドイツの負担はそれだけ減るのだから・・・。ちなみに昔読んだ本には、アメリカが第二次大戦で使った総費用は対日本が25%で、ヨーロッパにつぎ込んだ費用が75%と書いてあったような気がする。アメリカにとって日本なんぞは本気で戦う相手ではなかったのである。

 さて、わが日本の首相東条英樹はどうしたかというと、真珠湾奇襲大成功の知らせに興奮して、さっそく天皇に報告に行ったそうである。結局、日本軍の真珠湾攻撃を関係各国の首脳は全員大喜びしたのである。変な話である。これから戦争で多くの人が死んでいくというのに・・・。

 日本は何故あんな馬鹿げた戦争をしたのか。私の手元に一冊の本がある。『日本はなぜ開戦に踏み切った』という題名で、著者は森山優で出版社は新潮選書。著書は次のように書いている。
―― 東京裁判の過程で浮かび上がってきたのは、判決が指摘した一貫性よりもリーダーシップ不在のまま状況に流されていく当時の指導者達の姿だった。結果の重大性と過程の空虚さ、このギャップをどのように理解したらいいのだろうか ――

 開戦時の陸軍の軍務局長だった武藤章は戦後の獄中で手記を書いているが、彼が言うには満州事変(昭和6年)がなければ日中戦争はなく、太平洋戦争もなかった。それじゃ満州事変とは何だったのかということになる。当時満州にいた関東軍が無断で中国軍に戦闘をしかけ、たちまち要地を占拠した事件である。政府は不拡大方針と発表したのだが、調子に乗った彼らは次々に戦線を拡大していき、政府はその行動を黙認したのだった。平和な時であれば昇進は2年・3年かかるのだが、戦争となれば手柄によっては二階級特進もあり、出世が早くなるから軍人は張り切らざるを得ないが、その恩恵にあずかるのは一部の軍人だけで、召集された大部分の兵士には縁のないことだった。それやこれや軍の統制は乱れ、下剋上となってしまったのだった。勢いに乗った関東軍は、中国の北部へ進出するやらやり放題となって、陸軍省や参謀本部も困ってしまった。
 その上、日中戦争である。日中戦争は完全泥沼化してしまっていた。陸軍は撤退しないで中国の蒋介石政権を倒すまでと頑張ったのだが、倒れるはずがないのである。というのは、蒋介石政権にはアメリカ・イギリス・フランス・ソ連が経済・軍事の援助をしていたからである。彼らは中国に同情して援助したのではない。中国と日本の戦争を長引かせれば、日本の国力は低下する。そうなれば、日本は人畜無害の弱小国になるという訳である。石頭の軍部の首脳陣にはそのことがわからない。昭和12年に始まった日中戦争は日本の敗戦まで続いたが、昭和13年頃から国民の日常生活に必要な生活物資は不足し始め、軍部とマスコミは国民の目をそらすために、中国を援助するアメリカ・イギリスが悪いと煽り立てたのである。昭和15年には一度やめたはずの日独伊三国同盟が松岡外相によってぶり返され、結局三国同盟を結んでしまったのだった。当初三国同盟は、アメリカ・イギリスを敵にまわすとして、絶対反対を言っていた海軍はいつしか腰砕けになってしまった。何しろ昭和14年には、ドイツとイギリスは戦争していたのである。今となってみれば、害にこそなれ、何の役にも立たなかった三国同盟をよくもまあ結んだものである。

 そして、運命の昭和16年である。4月から野村大使がアメリカに行き、戦争回避のための交渉が始まったが、アメリカの要求は中国からの撤兵、三国同盟からの離脱だったから、日本の陸軍の賛成は得られなかった。ある時、近衛首相は側近に語ったそうである。「多くの国民は日本を動かしているのは首相である私だと思っているだろうが、現実に日本を動かしているのは、陸軍と海軍の軍務局長である」と。簡単に言えば、当時の日本は軍事政権だったのである。つまり、すべての問題は軍事的視点から決定されたと言える。7月の御前会議は戦争をやるかもしれないぐらいの軽い気持ちで終わり、7月下旬には運命の南部仏印進駐を開始したのだった。そうなればアメリカ領のフィリピン・イギリス領のシンガポールは日本の攻撃範囲に入るので、アメリカは激怒し、日本への石油輸出を全面禁止した。当時の日本は石油の9割をアメリカから輸入していたので、座して死を待つか、死中に活を求めるかの二者択一を迫られた。だがそれはあくまで軍事上の視点で、まともな政治家ならば、あっさりアメリカに譲歩して石油を確保したであろう。当時は陸軍・海軍がトップの座にあり、その下に首相がいて、そのまた下に各大臣がいるという構図になっていたので、外務省が「そんなことをしたらアメリカと戦争になる」と言っても、軍部の意向が優先された。戦後当時の軍部の高官は、南部仏印進駐があんなにアメリカを怒らせるとは思わなかったと言っているが、孫子の「己を知り、敵を知れば百戦危うからず」の逆を日本軍はやっていたということである。日本軍の三大特徴は、独善・楽観・希望的観測と言われるが、まさに南部仏印進駐はその象徴的出来事だった。10月、アメリカとの交渉は進展せず、近衛首相は東条陸相に中国からの撤退を要請したが、東条陸相は拒否した。彼の言い分は「20万の犠牲者を出し、巨額の戦費を使い、何の成果がなくて撤退できるか」というものだった。私に言わせれば、バカなことを言うんじゃない。20万の犠牲を出し、巨額の戦費を使って何の成果もないとは何事だ。そんな戦争を始めた反省と責任を明確にするのが先決であろう。その上で、今後の方針を検討すべきである。なんの目算もなくダラダラと中国との戦争を続け、その上アメリカと戦争するとは、常識から言って狂気の沙汰である。東条の石頭の中には、陸軍のメンツしかなかったのである。こうなっては日米交渉成立の見込みは無いとして近衛内閣は総辞職し、次に予想に反して東条が首相になった。天皇は東条に9月の御前会議の決定は白紙に戻し、再検討するよう命じた。東条は天皇の意志(戦争反対)を知って連日会議を開催し、ダラダラと小田原評定を続けた。陸軍の軍務局は戦争反対、参謀本部は断固決戦、海軍はのらりくらりと結論を出さない。外務省・大蔵省は戦争反対。しかし、大詰めになって事態は変わった。島田海軍大臣が伏見宮に説得されて賛成に回り、鈴木企画院総裁がでたらめな数字をあげて説明したのに、石頭の東条がこれならやれるとその気になった。島田海軍大臣が異例の出世をしたのは伏見宮の引きがあったからだそうだが、戦争反対だった彼は宮様の説得にコロリと参ってしまった。島田は私的事情と国の運命の区別がつかない男だったらしい。ほぼ開戦と決まった頃、山本五十六は島田に手紙を出して、天皇の聖断で戦争をやめさせろと迫ったのだが、それは不発に終わった。戦争となれば主に戦うのは海軍である。海軍の軍令部総長の永野は「戦争をやるなら今しかない。一年半くらい十分戦えるが、長期戦になったら三年以降は不明」と何とも無責任な発言をしている。いくら日本が短期決戦を望んでも、相手が長期持久戦できたらそれに対応しなくてはならない。しかし、日本には長期持久戦に耐えるだけの体力はない。それでも開戦に踏み切ったのは、ドイツはソ連・イギリスに勝つ、そうすればアメリカは講和に応じざるを得ないだろうという日本軍独特の独善・楽観・希望的観測によるものだった。天下の陸軍大学・海軍大学を優秀な成績で卒業した連中がなぜ、非科学的・非合理的思考をしたのか、私には全く理解できない。


〇日本は必敗することを知っていた
 『経済学者たちの日米開戦』 牧野邦昭著 新潮選書
この本の最初に当時東大経済学の教授の有沢広巳の話が載っている。「非合理的」「情報軽視」といったイメージのある日本陸軍であるが、実際には開戦前に多くの一流の経済学者を「秋丸機関」に動員して、日本のほか、アメリカ・イギリス・ドイツ等の主要国の経済抗戦の調査をした。その際に、当時治安維持法違反容疑で検挙され、保釈中の身であった有沢をメンバーに引き入れ、「迎合せずに真実を書いてくれ」と依頼していたのである。しかし、そこまでして陸軍が正確な情報を得ようと努力していたにも関わらず、日本は昭和16年12月にアメリカ・イギリスに宣戦を布告し、太平洋戦争に突入することになる。それはなぜなのだろう。秋丸機関は昭和14年から17年にかけて存在し、最後霧散解消した。「真実の研究報告」は15年の末には終わったようである。日本については、日中戦争に続いて大きな戦争は日本の経済力では無理と断定していたという。また、ドイツについてはドイツの戦時体制は頂点に達しており、これを維持するにはソ連に侵入して、ウクライナの穀倉地帯、バクー油田を確保する以外にない。それができないならドイツは○○年の春には崩壊するだろうと、ドイツの敗北の時期までほぼ正確に書いてあったそうである。

 ーー 閑話休題 ーー
 約40年前、ソ連に旅行しモスクワの空港からホテルに向かった。途中に巨大なモニュメントがあったので、ロシア人の女の若いガイドに「あれは何ですか?」と聞いたところ、ナチスドイツの軍隊がここまで来て退却して行った記念碑ということだった。そこは目の悪い私にもモスクワ市街がかすかに見える所で、こんな所までドイツ軍は迫っていたのかと驚いたものだった。また有名なボリショイサーカスを見るために地下鉄に乗ったところ、駅がやたら深く、エスカレーターのスピードが新幹線並みで、なんで深くてスピードが早いのかガイドに聞いたところ、ドイツ軍の空襲から市民を守るため、早く深くしたのだという。もう一つ、ペテルブルグのパンはやたらと硬いので、なんでこんなに硬いのか聞いたら、大戦中、ペテルブルグはドイツ軍に3か月間包囲され、食糧は非常に乏しく、一日でも長持ちするように硬く焼いたという。その習慣が今でも残っているということだった。ーー      

 「秋丸機関」とは、陸軍の軍務局長の武藤章の指示で秋丸主計大佐をボスとして作った機関である。現実主義者の武藤は、正確な日本の力、アメリカ・ドイツ等の戦力を知りたかったのだろう。開戦直前には、新庄主計大佐がアメリカに行って、図書館等の公開されている資料に基づいてアメリカと日本の戦力分析をやった結果、約20対1の大差があって、アメリカとの戦争は不可能と結論を出していた。その報告書が日本に届いて武藤等は読んでいたはずである。新庄主計大佐は心労のためか、12月8日の真珠湾攻撃を知った後、12月下旬に日本に帰ることなくアメリカで死んだ。
 もう一つ、近衛首相直属の「総力戦研究所」ができた。一流の学者、陸海軍や各省庁の若手の官僚で結成され、アメリカと戦争になったらどうなるかと研究した。結果は戦争は不可だった。理由としては、一年半くらい対等に戦えるだろうが、その後はジリ貧となって最後は負けるというものだった。ジリ貧になるのは、東南アジアから戦争に必要な物資を日本に運ぶ手段がなくなるからということだった。もともと日本海軍には輸送船を保護するという発想はなく、開戦当初から日本の輸送船は無防備のまま、日本と東南アジアを往復していた。そのうち、反撃体制を整えたアメリカ軍は、日本の輸送船の航路において、多数の潜水艦で輸送船を撃沈し、日本の輸送・生産を破壊し、日本の弱体化に成功したのだった。まさに総力戦研究所のシナリオどおりだった。総力戦研究所の部屋に時々東条英樹陸軍大臣が来て「ダメか」とつぶやいていたという。軍部の首脳陣は報告書を見て、学者の机上の研究と実際の戦争は違うと言っていたそうだが、いざ戦争となったら大量の物資を消費するから、数的裏付けが必要なのは小学生でもわかるはずである。当時の軍部の頭はどうかしていたのだろう。                                                     

 日本は戦争に負けた。アメリカは占領軍として日本にやってきた。占領軍の高官の一人は、戦前・戦中の数々の報告書を見て「こんな立派な報告書がありながら何故あんな馬鹿な戦争をしたのだ」とあきれ返ったという。ともあれ、日本は開戦に踏み切ったのである。日中戦争以来、日本は軍事色一色になって「中国をやっつけろ、中国を支援するアメリカ・イギリスなんぞ、へのかっぱだ」とマスコミを通じて煽りに煽った多くの国民は、「欲しがりません、勝つまでは」とその気になっていた。が、現実にアメリカとの戦争か妥協かと二者択一を迫られた軍部は困ってしまった。アメリカと妥協するためには、南部仏印・中国からの撤退、三国同盟からの離脱をしなくてはならない。今更アメリカと戦争しても勝てないので、アメリカの条件をのみます、では国民は納得しない。軍部の中堅どころは戦争だ戦争だといきり立っていて、戦争はしないと言ったら、暴動・クーデター・テロ等が起きて国内は大混乱になることも予想されていた。それもこれも軍部の自業自得なのであるが、軍部の首脳は前線の兵士に「一人になっても戦え、後退は許されない」と命令してきたのに、今更どのツラさげて「我々は中国から撤退する」と言えるのか等々、彼らは考えたであろう。となると、軍部の特技を生かすほかない。独善・楽観・希望的観測だ。最初の1~2年は何とかなる。その後は不明だが、ドイツがイギリスを屈服させれば、アメリカは講和に応じるだろうという。つまり、世界情勢の変化に期待したのである。こういうのを他力本願という。つまり、東条等は国内の暴動・内乱・テロ等で自分が殺されるのを恐れて、あてもなく戦争に踏み切ったのではないかと私は思っている。なんとも無責任な話ではないか。

 〇終わりに
 昨年の12月8日は、日本海軍の真珠湾攻撃の日として、多くの人の知るところである。ずいぶん前の話になるが、テレビで石原慎太郎が語っていたことを思い出す。石原がある日電車に乗っていると、二人の大学生らしき男たちが会話をしていた。一人の男が「昔日本はアメリカと戦争したんだってよ」別の男が「それでどっちが勝ったんだ?」この話を聞いて、私は呆れるより笑ってしまった。現在の多くの若者にとって、太平洋戦争は興味も関心もなくなっているのだろう。「古きに学んで新しきを知る」とか「過去を知らない人は未来を予測できない」とか言われる。現在の日本の体制は、戦争に勝ったアメリカが、勝手に日本は半封建・半文明国家と決めつけ、日本の文化・伝統等を無視してアメリカ流の民主主義国家にしようとした結果である。同じ敗戦国であるドイツ・イタリアにもアメリカ軍基地はある。しかし、ドイツ・イタリアは自分達の憲法・法律をアメリカ軍基地内でも守らせている。日本は治外法権でアメリカの基地内に警察権は執行できないし、基地外でも公務中であれば、日本の警察はアメリカの軍人を逮捕できないのである。
 この2~3年のコロナ騒動を見て呆れるのは、アメリカの軍人・軍艦・家族は自由に基地外にコロナをまき散らしているのに、政府は何の対策もしなかったことである。どうして日本はこうまでアメリカに対して卑屈になるのだろうか。そう思う時、このからくりを理解するには昭和前期から太平洋戦争を知らなくてはならないと思う。太平洋戦争について知ると、当時の日本の天皇を中心とした統治機構・エリート教育・マスコミ・人命軽視等、日本は多くの面で未成熟だったということが分かる。それらは戦後77年で乗り越えられたのだろうか。

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