山縣尚武

岩手県出身 明治大学卒業 趣味は人物研究です よろしくお願いします

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最近の記事

学徒出陣

 昭和16年12月8日、日本海軍が真珠湾を攻撃し、アメリカとの戦争が始まった。最初の頃は日本の連戦連勝だったが、早くも、17年6月のミッドウェー海戦で日本海軍は惨敗し、18年2月にはガダルカナル撤退。4月には連合艦隊司令長官の山本五十六が戦死。5月にはアッツ島玉砕。8月・9月にはタラワ・ヌキン玉砕と、日本軍の劣勢は明らかになりつつあった。アメリカは18年の中頃には、戦争の峠は越えたとして兵器の生産を減らし、日本の占領政策を本格的に研究し始めていたのである。だが、日本は「欲しが

    • ウクライナ戦争とは

      昨年末のサンデー毎日に、舛添要一と田原総一郎の対談が載っている。 それによると、 舛添「はっきり言って、米国との代理戦争だ。一番悪いのはバイデンだと    思っている」 田原「米国の責任は重い。90年の東西ドイツ統一でNATOを東方に拡大    しないと約束したのに守らなかった」 そもそもウクライナとはどんな国なのか。 〇ウクライナとは  ソ連邦から離脱・独立した時、ウクライナの人口は約5200万人だったのが、ロシアが侵入した時、2022年2月24日には約4800万人。その

      • 真珠湾攻撃とは何だったのか

        〇真珠湾攻撃とは何だったのか  昨年12月8日は、日本海軍機動部隊の真珠湾攻撃から80年ということで、関連番組がさかんにテレビ等で放送された。私には目新しいものはなく、退屈な番組だった。そこで、私なりの真珠湾攻撃についての感想を書くことにする。  昭和16年11月26日午後1時半、エトロフ島のヒトカップ湾から空母6隻を主に艦船28隻が、真珠湾めざして出港して行った。運命のハルノートが日本に届いたのは、翌27日であった。4年前、コロナで一躍有名になったプリンセス号に乗って、北海

        • バカな政府はコロナより怖い

          ― プリンセス号 ―  私は数年前、コロナで一躍有名になったプリンセス号に乗って、北海道カラフト一週間の旅をした。去年、そのプリンセス号で突然コロナが発生したと連日テレビで放送されたので、他人事と思えず、ついテレビに釘付けになってしまった。最初は懐かしいなぁと思い、次にあんな狭い船室に閉じ込められた人々は大変だなぁと同情し、最後にはあんなところに一週間以上も閉じ込めておくなんて、非人道的だと怒り心頭に達した。海外の報道では、日本は最悪の選択をしたと非難ごうごうだったという。

          召されて妻は天国へ

          平成三十年十月十五日午前四時頃、電話が鳴った。この時間に電話が鳴るということは、妻が入院している病院からであり、妻の身に重大な事態が発生したのだと直感した。看護婦らしき女の声で「奥様の呼吸が止まりました。すぐ病院に来て下さい」と言う。二日前に医師から治療方法について説明を受け、よろしくお願いしますと言い、病室に妻を見舞い、また来るからねと言って帰ったのだった。 あれやこれや考えていてもどうしようもないので病院に向かい、午前五時過ぎに到着した。四階の六人部屋の妻がいるはずの部屋

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          カラフトの終戦

          八十歳以上の人は毎年八月になると、特別な気持ちになることであろう。 昭和二十年八月十五日は、日本がアメリカ・イギリス等の連合国に、ポツダム宣言を受け入れ、無条件降伏した日である。しかし、満州とカラフトではソ連軍と日本軍の激戦がその後も続いた。というのは、ポツダム宣言はアメリカ・イギリス・中国の三カ国の宣言であって、ソ連は参加していないので、ポツダム宣言を受け入れ、日本が降伏したといっても、それはあくまでアメリカ・イギリス等の連合国に対してであって、ソ連は関係ないという理屈は成

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          北海道二人旅

          何故、宗谷岬か 私は約半世紀前、新調した学生服を着て、生まれて初めての革靴を履き、残雪に覆われた山々を見ながら、自称岩手の大型新人として盛岡から東京へ出てきたのだった。明治大学に入学するためであった。大学受験の時、先生に「お茶の水駅を降りたら右(東大)に行くんだぞ」と言われたのだが、私は左(明大)へ行ってしまったのだった。これは冗談である。 最初の登校日に指定の教室に入ったら、見知らぬ男ばかりだった(当たり前である)。そのうち、先生が入ってきて簡単な説明があった後、自己紹介

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