見出し画像

PC-8801版『オホーツクに消ゆ』② グラフィック制作エピソード|株式会社シフカ 長田 智行さん

前回の投稿「PC-8801版『オホーツクに消ゆ』①」の続きです。

パソコンPC-8801版『オホーツクに消ゆ』のグラフィックを株式会社シフカさんが担当されていたことが判明。シフカさんのnoteに書かれていた内容を元に、さらに開発当時のお話をお聞かせいただくことができました。株式会社シフカの代表取締役社長、長田智行さんです。

長田智行さん プロフィール
株式会社シフカ代表取締役社長。CGアーティストグループ ディジタル・イメージ代表。1984年にニューメディア画像制作会社シフカを設立。マルチメディア推進研究団体のアドバイザーも多く兼任。

PC-8801版『オホーツクに消ゆ』(画像提供:teshima takashi)
PC-8801版『オホーツクに消ゆ』のゲーム画面(以下、注釈のないものは同様)

実をいうと、もともとは個人的にお話させていただくだけのつもりで、内容を公開する予定はありませんでした。

しかし、お聞かせいただいたお話がとにかくどれも興味深く貴重な内容だったため、これは資料として残しておきたい、ファンの方々にも楽しんでいただけるだろうと考え長田さんにご相談させていただいたところ、快くOKのお返事をいただきました。

そして公開方法について信頼している方々にアドバイスをいただきつつの熟考の結果、今回のnoteアカウントの立ち上げへと至った次第です。

長田社長ご自身もおっしゃっていましたが、なにしろ40年前のお話です。記憶違い、認識違いなども含まれるかもしれません。そのようなことをご理解いただいたうえで、お読みいただけますと幸いです。

それでは、どうぞ。


なるお(以下、ーーーーー):最初に発売されたPC版の『オホーツクに消ゆ』は説明書にスタッフ一覧が掲載されているのですが、グラフィックご担当についてはどなたが担当されたのかわからない状況でした。

PC-6001版はプログラムを担当された上野利幸(ゲヱセン上野)さんが、堀井雄二さんから提供されたラフのイラストを元にご自身で描かれたというお話が残っています。しかし同時発売のPC-8801版については、長いこと詳しい記述を見つかけることができなかったのです。

長田 智行社長(以下、長田):『オホーツクに消ゆ』に携わったときは、まだシフカという会社はできていなかったんですよ。シフカの設立を準備しているときですね。当時はフリーのデザイナーだったのですが、フリーになる前のデザイン会社に勤めていた頃からアスキーさんに遊びに行ってたんです。私の友人が働いていたもので。

ーーーーーそういうつながりだったのですね。

長田:その時はまだ狭いビルでしたね。郡司さん(*01)が社長で、吉崎さん(*02)、塚本さん(*03)、あとは古川さん(*04)などがいらっしゃって。私は友人と会うために通っていたんです。そのあと遊びに行ったらすごく立派なビルになってました(笑)。
*01:郡司明郎。アスキー創業メンバーのひとり。後にインプレスを創業
*02:吉崎武。雑誌『ログイン』『アスキー』初代編集長
*03:塚本慶一郎。アスキー創業メンバーのひとり。後にインプレスを創業
*04:古川亨。後に日本マイクロソフトの社長などを務める

ーーーーーまだお仕事の関係ではなく。

長田:本当に遊びに行くだけで、「こんなことやってるんだ、あんなこともやってるんだ、すごい会社だねー」という感じでした。アスキーは人が足りないらしく、「うちにこない?」と誘われたこともあったんですけど、私が出版社とは縁遠いグラフィックデザイナーだったものですから「出版の方はよくわからないなあ」という感じで入社はしませんでした。

でも何しろ、遊びに行くたびに面白いものを見せてもらえるんです。「いまこんなの作ってるんだよ」ってジョイスティックを見せてもらえたりとか。ちょうどその頃に私が当時勤めていた会社をやめてフリーになったものですから、仕事をもらいにいったんです。『ログイン』のカットとかを描かせてもらってました。

ーーーーー時期的には1983、84年頃ですね。

長田:はい、そのころですね。そんな中で当時の編集長だった宮崎さん(*05)に「こういうのできませんか?」と頼まれまして。『オホーツクに消ゆ』の前にちょっとした試作の絵を作ったんですよ。
*05:宮崎秀規。『ログイン』二代目編集長

ーーーーーシフカさんのnoteにも書かれている、部屋の絵ですね。

長田:はい、部屋があって、ソファーがあって、そしてその後ろを見て次の部屋に入っていく……というような。まずそういった絵を見てもらったところで、「これ、いけるね」みたいな話になりました。そして『オホーツク』を作ってくれないか、というような話になっていったと記憶しています。

窓口は宮崎さんでした。ちょっと記憶が曖昧になってきているのですが、声をかけてくれたのは宮崎さんだったと思います。

しかしなにしろパソコンを持っていなかったんですよ。会社の名前もまだ決まってなかったけど、事務所を借りて、パソコンもアスキーさんにお願いして一台借りて。

借り物だから、直接ディスプレイにマジックで下絵を描いちゃまずいだろうと、サランラップを貼って一生懸命マジックで描いていたのを覚えてます。といっても私が描いたわけではないんですけども(笑)。

ーーーーーいわゆるラップスキャン(*06)ですね。
*06:サランラップなどの透明なフィルムを使って、下に置いた絵をトレースする手法。当時イメージスキャナは非常に高価で一般的に使えるような代物ではなかった

長田:たまたま今回の依頼にぴったりの人材がアルバイトでいたんですよ。彼に「この借りてきたパソコンでこういうことをやることになったんだけど」と言ったら、「あ、やります!」って。すごい勢いで絵を描いていきました。

タブレットやタッチペンはもちろん、マウスもないのでキーボードを使って絵を描くんです。テンキーでカーソルを移動して、ファンクションで領域内塗りつぶし、とかそういう感じで。

ーーーーーその方がnoteにも記されているYさんなのですね。お名前は覚えていらっしゃいますか?

長田:その記憶が少し曖昧で……。私の記憶では「山田くん」だったと思うのですが。

ーーーーー『オホーツクに消ゆ』の説明書のスタッフ一覧に、「山田啓司」さんというお名前がありますが、もしかするとこの方でしょうか。

PC-8801版『オホーツクに消ゆ』説明書より

長田:そういう名前だったのかな……。名前までは覚えていないんです。

アルバイトだったので「うちの社員になれよ」って誘ったのですが、他にやりたいことがあるんだと言っていました。ちょっと変わったやつでした。同じ学校の後輩だったのですが(笑)。

(筆者追記)お話をうかがった後、『ログイン 1985年7月号』に下の記述を発見し、お名前が山田啓司さんであることが確定しました。

『ログイン 1985年7月号』の記事「メイキング オブ ヤマトタケル」より

ーーーーーつい昨日までグラフィックについては不明なことだらけだったのに、そんなエピソードまで判明するなんて展開の速さに驚きが止まらないです。

長田:(笑)。こんなことを調べてまとめてくれている人がいるというのは、こちらもすごくうれしいです。

当時は社名が決まっていなかったということもあって『オホーツクに消ゆ』の協力会社として名前が出ることはないし(笑)。なので、ちょっとでもお役に立てるのであればうれしいです。

ーーーーーこの作品のファンが多いことはご存知でしたか?

長田:はい。知り合いに『オホーツク』に関わったという話をしたことがあるのですが、「いくつか種類がありますけどどれですか?」って聞かれて。「大人っぽい、ちょっと色っぽい絵のだよ」って答えたら、それはまさに私の世代が遊んでいたものですよ!って言われたことがありました。

たしか、元になった絵があったんです。その絵を参考にしながら、もっときれいな絵にしていく、新しく描き直してくれという依頼だったと思うんですね。元になるものが何もなしに描くというのはできなかったので。

なんとなく覚えてるのは、看板があるとか、ルブランとか。ホステスはちょっと違う感じだったのを色っぽいアフロヘアにしたりとか。

ーーーーー参考にされたという絵は、堀井雄二さんによるラフ絵か、先行して開発が進んでいたというPC-6001版かもしれません。

堀井雄二さんによるラフ絵や参考写真のついたシナリオ。『ログイン 1985年2月号』より
(画像提供:teshima takashi)
PC-6001版『オホーツクに消ゆ』のタイトル画面(画像提供:teshima takashi)

長田:(PC-6001版の画面写真を見て)これは見ていないですね。タイトル画面も、杭が二本立っている指示があったような気がします。PC-6001版を参考にしていたとしたら、タイトル画面はそちらと同じ山の背景になっていたはずですから。となると堀井さんの絵だったのかもしれませんが、定かではありません。

ーーーーータイトル画面といえば、PC-8801版(と、それを元にした移植版)のみ、タイトル表記が「オホーツクに消ゆ!!」と最後に「!!」が付いていました。個人的にはこれも惹かれる要素のひとつだったのですが、この表記になった経緯はご記憶ありますでしょうか?

PC-8801版『オホーツクに消ゆ』のタイトル画面。
タイトルに「!!」が付いている

長田:記憶にないです……。気にもしなかった、というのが正直なところです。でも、指示なくやることはないと思うんですよね。他の機種のタイトル画面も見たことないです。

ーーーーーでは謎のままということで(笑)。実際に手を動かされたのはすべて山田さん?

長田:そうですね。私は出来上がったデータをアスキーに納品しにいったりして、みたいなことだったと思います。

ーーーーー長田さんも、画作りの提案などはされたのでしょうか。

長田:当然、横で見ていて口出しはしたと思うんですけど、ただ山田くんがすごく上手かったんですよ。画面を見てもらえればわかると思うんですが、あれだけのクオリティのものを描く、任せられる人間だったので。

ーーーーーラップスキャンを使われたとのことですが、まずは下絵を紙に描いて、それをサランラップに写し、画面に貼ってドットに起こして……という一般的な流れだったのでしょうか。

長田:えっとね……最初から画面にサランラップを貼って、それにマジックで描いてました。

でも途中で面倒くさくなったみたいで、「ディスプレイに直接マジックで描ければもっと楽なのに、だめですかね?」みたいなことを言われて。「返却しなくちゃならないから、マジックを消せるならいいよ」って。後半は直接ディスプレイに描いていたような気がします。

「両目で見るとドットがずれるんですよ」とかいって、片目つぶって描こうとか(笑)、そんな風にやってましたね。

ーーーーー作業を想像してみると、わかる気がします(笑)

長田:その後、『オホーツクに消ゆ』に続いて『英雄ヤマトタケル(*07)』というタイトルのグラフィックの依頼を受けたのですが、そのときにはシフカという会社名が決まっていました。
*07:ログインソフト第二弾。1985年10月頃に発売

ーーーーー『英雄ヤマトタケル』の説明書には「協力(株)シフカ」と社名が載っていて、『オホーツクに消ゆ』の説明書に載っていないのはそういう流れだったからなんですね。

『英雄ヤマトタケル』説明書より、制作スタッフ一覧(画像提供:おおき)

話は少し飛ぶのですが、当時シフカさんではキャプテンシステムのグラフィックのお仕事が中心だったとのこと。キャプテンシステム版の『オホーツクに消ゆ』には関わっていらっしゃったのですか?

長田:あれには関わってないんですよ。当時、うちはキャプテンシステムのほうが本職に近かったので、「なんだよー、キャプテン版作るんなら言ってよー」みたいなことを思った記憶があります(笑)

キャプテンシステム版『オホーツクに消ゆ』。『ログイン 1985年9月号』より

キャプテンシステムは、深く関わって絵を描いていたんですよ。文字がメインのシステムですが、これでも絵もかけるねってことで、原稿用紙にドットで絵を描いて、それをオペレーターが入力していって画面を作っていくんです。だからうちは原稿用紙で元の絵を描く、デザインするというのが仕事でした。

貧弱なスペックの中で、文字だけでなく、どうすれば絵を表現できるか。4×46×6のなかに2色しか使えないという制限の中で、いかにかっこよく見せるかということを、一生懸命ゼロから考えていたんです。

ーーーーー同時期に、家庭用ゲーム機やアーケードゲーム、パソコンなどでドット絵を手掛けられている方がいらっしゃいましたが、長田さんはキャプテンシステムの世界でドット絵を突き詰めていらっしゃったのですね。

長田:キャプテンシステムはパソコンより色数も画素も少なくて。でも周りにやってる人がほとんどいなかったので、うちに仕事を依頼してくれている人が「長田さんがやらなければ、他にできるひとがいないんだよ」って言っていました(笑)。大変でしたが、それ自体がゲームみたいな感じで面白かったですね。

キャプテンシステムって、あの時代にはかわいそうだったと思うのは、スペック的に基本的には文字メインで送るものであって、絵を送る用途のものではなかったんですね。ある意味私も責任を感じているのですが、文字だけならもう少しうまくいっていたかもしれませんね。

(筆者補足)シフカさんとキャプテンシステムの話については、下のnoteで詳しく語られています。

ーーーーー話は『オホーツクに消ゆ』に戻るのですが、2022年になってから、シフカさんのnoteで『オホーツク』について言及されたのはどのようなきっかけだったのでしょうか。

長田:noteはシフカのブランディングの一環で始めたんですが、『オホーツクに消ゆ』関連のエピソードが知られないままで埋もれてしまうのはもったいない、ということは思っていました。当時の自分たちにとってかなり面白い仕事のひとつだったので。

うちの社員からも、どこかに載っていた『オホーツク』に関する記事に「グラフィック担当はよく覚えてない」というようなことが書かれていた、と聞いたことがありました。

ーーーーーそれで、歴史のひとつとして記しておこうということになったのですね。

長田:そういえば、第二弾の『英雄ヤマトタケル』も結構大変だったんですよ。パソコンはアスキーさんに借りた一台しかなかったとお話しましたが、山田くんが「時間がないので自宅で作業したい」というので、パソコンを山田くんの自宅向けにもう一台用意したんです。でもそれがよくなかったのか、作業予定がどんどんずれこんでいって。

「山田くん、できた?」「いやあ、まだ、できてないんです」「だめだよ!もう締切だよー」って。

そのときはプログラマーが新宿のホテルにカンヅメ状態で作業していて、そこに私ができあがったフロッピーを持って納品に行っていました。でも納期が遅れているので「ちゃんと予定通りにもらえないと困るよ!」って堀井さんには怒られるし(笑)

ーーーーー(笑)あ、でも『英雄ヤマトタケル』のスタッフ一覧には堀井さんは含まれていないようですね。

長田:堀井さんと名刺交換をしたのが新宿のホテルだったのは確かなんですけど、怒られたのは『オホーツク』のときだったのかな? 『ヤマトタケル』はちょうど会社を作るとか、キャプテンの仕事もいそがしかったりと重なっていた時期で、覚えていることが少ないんです。

『オホーツクに消ゆ』製作のために、開発メンバーがカンヅメになった場所と思われる旧・スターホテル東京。2013年5月23日撮影(画像提供:teshima takashi)

そのころの私は堀井さんが有名な人だということを知らなくて。友達が「堀井さんと仕事してるの! すごい人なんだよ!」って驚いていました。

そんな感じでとても大変だったので、「うちはゲームの仕事はもうやりません」ってことになりました。というか、社内では対応しきれなかったんです。実作業をしていたのはアルバイトですし、しかもパソコンも借り物でしたし。あとは時間的にも……キャプテンシステムとかだとビジネスライクに仕事ができるんですが、ゲームってなんとなくそういう感じじゃなくて……納期も短かったり。

社内で、自分の目の届くところでアルバイトが作業できたのであればまた全然違ったのかもしれないんですが。あ、でも、そのあとゲームはハドソンと一緒にやったことがあります。

ーーーーーえ? なんというタイトルでしょうか?

長田:小川範子っていう……。

ーーーーー『No・Ri・Ko』! PCエンジンCD-ROM2のローンチタイトルじゃないですか!

長田:その当時も、おもしろい話がいっぱいあるんですよ。ハドソンさんにもすごくおもしろい人がいて。お名前が……

ーーーーーもしかして、中本伸一さんでしょうか?

長田:中本さん! 初めてハドソンの本社に行ったとき、北海道の空港までご本人がベンツで迎えに来てくれて。それでそのまま会社に行くと思ったら、「昼飯食いましょう!」って(笑)。イクラが大盛りで、ストップって言わないと(盛るのが)止まらない店に連れて行かれて、これはすごいなあと。

あと、社外秘のはずの話を「長田さんも一緒に聞いてよ」って同席させてくれて。「ハドソンはこういうことを考えているんですよ」ということを社内向けに部長さんとかを集めて話をしていたんですけど、その時点で「ネット上に街を作るんだ」って次の時代のことを考えていました。その後のバーチャルモールとかにつながっていってるんですよ。

ーーーーーそもそもシフカさんとハドソンさんとはどのような接点があったのでしょうか。

長田:そのころ、自宅が市ヶ谷の一番町にあったんです。一番町に会社を作るのが当時の夢で。で、ハドソンの東京支社も市ヶ谷にあったので、何度か営業に行って、多分そこでオホーツクの話をしたと思うんです。ゲーム制作に関わった経験がありますので、なにかお手伝いすることありませんかと。

そうしたら、「こんどNECが出すPCエンジンのCD-ROMで小川範子のゲームを出すので、手伝ってもらえませんか」という話をいただいて。そこからがスタートですね。

ーーーーー『No・Ri・Ko』には、どのような形でかかわられたのでしょうか。

長田:グラフィックですね。どんなものをやったのかはちょっと記憶にないのですが、うちの社員二人が北海道に行って、住み込みでやっていました。

最初はこちらの社内で作業しますよと言っていたのですが、北海道にきてほしいというハドソンからの要望があって。アパートを借りてくれて、そこからハドソンに通う形ですね。女の子と男の子がひとりずつでした。

ーーーーー当時は写真をきれいにスキャンして取り込むノウハウがなかったらしいので、そのあたりの作業かもしれないですね。

長田:そうかもしれないですね。私は東京にいたので、何をやっているのかはほとんど見ていないんです。

で、男の子のほうが途中で帰ってきちゃったんです。ハドソンさんから「いなくなっちゃったんですけど」って電話がかかってきて。彼の家に連絡したら「戻りたくありません……」っていうので、「じゃ、いいよ、シフカの方に出てこいよ」って。得意先での仕事ですから気もつかうだろうし、いろいろと大変だったんでしょうね。

逆に、女の子のほうは性がハドソンに合ったんでしょう、そのままハドソンに就職しちゃったんですよ(笑)

ーーーーーなんと(笑)

友人がたまたま札幌に行ったら「シフカの社員だった子にあったよ! すごく元気そうだったよ!」とのことだったので、「それならよかったよかった」と。

長田:あ、そういえばナムコの『リッジレーサー』の背景の一部をうちで作ってましたよ。家庭用じゃなくてゲームセンターのほうの。

ーーーーーえ!?

長田:「データを減らしつつリアルな絵を作りたいのだけど、描ける会社がなかなか見つからない」ということでウチに依頼をいただきました。それが終わったら、次は「スキーのコースを作ってもらえませんか」と。それもやりました。

ーーーーーとなると、『アルペンレーサー』でしょうか……。80年代半ばの『英雄ヤマトタケル』でゲームのお仕事は止めたはずなのに、90年代に入ってからも、超A級タイトルに関わられているとは。興味深すぎて話が終われないです(笑)

長田:たまたまです。運がよかったんでしょうね。よくナムコさんがうちみたいな小さな会社に依頼をくれたなあと思います(笑)。

(2024年4月)


このあと、その後のシフカさんのお話を色々お聞かせいただいたのですが、今回のテーマ、PC-8801版『オホーツクに消ゆ』にまつわるエピソードはここまで。

オンラインミーティングで想定していた時間を大幅にオーバーして、気づけば2時間半以上。ずっと楽しそうに、次から次にエピソードをお話してくださる長田さんの穏やかな口調と笑顔が印象的でした。突然のご相談にご快諾いただきまして、あらためて心より感謝申し上げます。


今回の記事は、以下の方々のご協力により執筆・公開することができました。ありがとうございました!

長田 智行さん(株式会社シフカ)

teshima takashiさん(@teshimatakashi1

おおきさん(@OOKIMARIO
gtozka(qbert)さん(@gtozka
手塚一郎さん(@Tezuka_Ichiro

#パソコン #レトロゲーム #テレビゲーム #ビデオゲーム #ファミ通 #レトロPC #オールドゲーム #ファミコン通信 #クラシックゲーム #マイコンBASICマガジン #ベーマガ

いいなと思ったら応援しよう!