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私たち、既に「今」に生きている / 想像することと描くことの違い

 おなじみの題目ですが、今回は「心配しなくても、私たちはすでに『今』に生きれているんじゃない?」という視点で話を進めたいと思います。

 早速ですが、「今に生きるぜ!」と意気込みながら(?)、次の画像をご覧ください。










 はい、そうしたら画像に戻らずにご回答いただきたいのですが、

この写真の中でピエロはどこにいたでしょうか?


どうでしょう、答えられましたか?
そうしたら、次のこんな質問はいかがでしょう。

あなたは何も見ずに自転車の絵が描けますか?


はい、恐らくほとんどの人が両方の質問に苦戦したと思われますが、
これらの質問のミソは、「今は今しか感じ取れない」、ということです。
私たちは普段「視ているつもり」でも、実はほとんど視れていないと私は思います。
もはや脳の機能の限界として、写真記憶でもない限り、目で見た物の記憶は5秒もしないうちに霧散してしまいます。
「実際に見ている」間は当然見れていますが、「見ていない」間は重要なポイントをかろうじて覚えているかいないか、って程度ではないでしょうか。
もちろん、これが味覚や聴覚や触覚でも同じであることは想像に難くないでしょう。
つまり、これを踏まえると「『今』が過ぎ去ってから『(当時の)今』が惜しくなるのは当たり前」なのです。
それは、「今(当時)をちゃんと生きれていなかった」のではなく、「単に忘れただけ」なのです。
あの時のご飯をちゃんと味わっていればよかった、映画をちゃんと集中してみればよかった、あの空間を楽しんでおけばよかった、、、と感じるのは、何も問題ではないのです。
つまり、「今」を生きるのには限界があります―その時の全てを十全に近くすることなど不可能です。
心配しなくても私たちは充分今に生きていると言えます。
また、ややこしい話ですが、だからこそ「今に生きる」ことは重要なのでしょう―「今」は「今」しか体験できないのだから。

第一、想起するだけで見た物聞いた物を追体験できるのであれば、
例えば美味しいものや好きな映画をリピートする必要もないでしょう。

 ところで、よく絵を描くときに「イメージするだけで(わざわざ手を使って描かなくても)それをそのまま絵にできればいいのに」と思うことはありませんか?
物事がイメージ通りにうまくいかない・・・そんなお悩みですが、私はこういうときは技術が足りていないのではなく、イメージが足りていないのだと思います。

絵がうまい人は、具体的にイメージしていて、よく観察しているのです。
先述の自転車の絵の質問を思い返してください・・・私たちは「自転車」を知っているようでいて、実は自転車をなんとなくの形でしか理解していないのです。

Deep image reconstruction from human brain activityという論文では、「頭にに思い浮かべたイメージを機械学習を用いて画像に出力する」という試みを行っていますが、その結果のひとつが以下の画像です。

・・・subject1~3が実験の結果ですが、私たちは「対象を対象通りに見ていると思いながらも、実際に頭の中にできている像はその通りではない」ということが示されているような気が私はしています。

今日の記事のまとめは以下の通りです。

・私たちは、経験したことをすぐに忘れてしまう(経験は、定着しない)
・私たちは、五感を通じて感じ取っているものは思っているよりも「荒い」(経験するだけではインプットとしては弱い)
→そのため、後になってから、その「経験」の感覚が薄れてしまうのは当然である。

今日はここまで。次の記事で会いましょう。

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