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コミュニケーションは人間の交流:コミュニケーション考4―爺のお勉強note
8.コミュニケーションは人間の交流
(1) 心理とは
三木那由他(哲学者)さんは、コミュニケーション・会話には情報の伝達のみではなく、言外の内容の伝達、そして、心理の読み合いといったような側面もあるとして次のように説明しています。
会話には少なくとも、言葉そのものが持つ情報の伝達、言外の内容の伝達、話し手と聞き手による互いの心理の読み合いといった複数の異なる側面がある。
お互いの心理を読み合うという場合、それは一体何を意味するのでしょうか。
三木那由他さんは、ポール・グライス(Herbert Paul Grice 1913年~1988年:イギリス出身の哲学者・言語学者)の理論を次のように紹介してくれています。
心理状態というのは脳に物理的に備わっている何かなどでなく、ある動物がある振る舞いをしたときに、その状況に置かれたという事実とその振る舞いをしたという事実のあいだに「説明の架け橋」を与えるために仮定される理論的概念なのだ、・・・
人間の心理とは実体として存在しているのではなく、その人の住む世界と振る舞いとの関係性から遡及的に把握される関係概念だということだと思います。
心理が独立自存する実体ではなく、世界、振る舞い、他者との関係性だとすれば、心理とは形成されつつ移ろいゆく関係性についての自意識ということになるのではないでしょうか。
(2) 大切なもの・こと
心理が独立自存の実体的なものではなく関係性であれば、介護の世界においても当事者の心理とは、その置かれた環境・他者と、その人の振る舞いから透けて見えてくる関係性ということになります。
私は、この心理の遡及性は、近内悠太(哲学者)さんのいう「大切なもの・こと」に相通じるものだと思います。
近内悠太さんは、「大切なもの・こと」は見えにくいが、それは、大切にされなかった時に、明確にわかると指摘しています。つまり、「大切なもの・こと」を大切にされなかった時、傷つく時に、その「大切なもの・こと」が遡及的に把握されるということです。
大切にしているものは見えないが、大切なものが大切にされなかったことは目に見える。
なぜなら、大切なものが大切にされなかった時、ひとは傷つくからです。
大切にしているものそのものは確かに見えないが、傷は見える。
大切なものは目に見えない。・・・なぜなら、大切なものとは、その対象と主体との関係性のことだからです。関係性それ自体は見えない。
しかし、傷は見える。傷ついた時の振る舞いは、行為の中に、言葉の中に顕れる。
近内悠太さんが「大切なもの・こと」は遡及的にわかるものだと指摘していますが、それは、三木那由他さんのいう心理が遡及的に把握されるということにつうじているように思われるのです。
「大切なもの・こと」については、以下のnoteをご参照願います。
(3) 人間の交流
コミュニケーションは言語によるものだけでははありません。私たちは、表情、振る舞いなどをつうじてもコミュニケーションしているのです。
そして、そこに透けて見えてくる、それぞれの心理、大切にしていること・もの、そして傷は遡及的にしか把握できないものです。
ということは、コミュニケーションとは、まず、話し手の思いや心理が独立自存の実体としてあって、それを言葉で聞き手に伝えるというものではなく、周りの環境、人間関係、振る舞い、表情、言葉がまずあって、それを、話し手と聞き手が遡及的に、事後的に了解し合おうとする営みだということになります。
そして、思い、心理を読み合うことは、情緒の交換(メタ・コミュニケーション)、人間の交流にもつながっていくのではないでしょうか。
会話の場面に参加するのは言葉や情緒ではなくあくまで人間なのであり、人間にはそのひとが発言した言葉の内実だけには還元できないようないくつもの側面がある。会話というのは情報の交換ではなく、人間の交流なのだ。
コミュニケーションを情報のキャッチボール、バケツリレーのように単なる情報伝達、情報交換のみに限定して捉えるのは、痩せ細ったコミュニケーション観でしかないように思います。
コミュニケーションとは人間同士の心理の読み合い、情緒的交流、共に居ることの確認、お互いの「大切なもの・こと」の相互理解をとおして「共存在」を形成することではないでしょうか。
池田喬(哲学者)さんは「共存在」を次のように説明しています。
ハイデガーにおいて最も基底的な他者関係とは「共存在」である。世界の内に存在することにとって自分だけでなく他者が一緒に存在していることは廃棄不可能な構成要素であり、さしあたりは自分だけで孤独に存在している世界に時折生じる出来事ではない。ということは、他者の存在は、時折関係をもつに過ぎない何かではなく、自分の存在を成り立たせる要素として最初から世界内存在に組み込まれている。
ハイデガーを引き合いに出すまでもなく、そもそも人間は「人の間」と書きます。ヒトはそれぞれが独立自存する実体というより、世界、環境、社会や他者との関係性がヒトなのでしょう。
介護という相互行為の世界においても、コミュニケーションはその中核をなすものです。
そしてそのコミュニケーションによって、介護する者とされる者との心理の読み合いや、お互いの「大切なもの・こと」を遡及的に理解し、お互いの関係性、つまり「共存在」としての人間を形成し修正していくものなのではないでしょうか。
ということは、コミュニケーションの乏しい介護は非人間的な介護、堕落した介護に他ならないのだと私は思います。
コミュニケーション考はシリーズとなっています。以下のnoteもご笑覧願います。