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人間の尊厳と介護 -虐待論Ⅴ‐1

1.尊厳は価値を超越する


 介護の世界でよく言われる「人間の尊厳」について、「そんなの当たり前」と思考停止せずに、一度立止まって、じっくりと考えてみることも大切だと思います。 

 人間の尊厳について考えるとき、よくイマヌエル・カント(Immanuel Kant:ドイツの哲学者)[1]の目的の定式が参考になると言われます。この定式は次のようなものです。 

「汝の人格と他者の人格の内なる人間性を手段としてのみではなく常に同時に目的として扱うように行為せよ」(「実践理性批判」)

  カントは、人間が互いの人格を目的として尊重しあう社会を理想として、それを「目的の王国」 と呼んだといいます。

 「人間性を手段としてのみ扱う」とは、人格を「モノ・コト」として取引の手段や道具として扱う(利用する)こと、客体として扱うということでしょう。

 「人格を目的として扱う」とは、互いの人格を尊厳をもった究極価値(目的)として尊重することで、他者をかけがえのない人として、主体として尊重するということでしょう。

 多くの人は、カントの言っていることは、当たり前、至極普通のことだと思うのではないでしょうか。 

 介護の現場では、人を「モノ・コト」扱いしないということは、当事者(お年寄り)を単なる対象として、客体として科学的、客観的にのみ捉えないということだと思います。当事者は分析され把握される客体的存在というだけではなく、自ら考え、欲し、行動する主体的存在だということが含意がんいされているのだと思うのです。

  マルクス・ガブリエル(Markus Gabriel ドイツの哲学者、ボン大学教授1980年~)は、カントの尊厳と価値の区別について次のように解説しています。 

「すべてのものには価値か尊厳がある。価値があるものには、代わりにそれと等価の別のものをあてることができる。それに対して、あらゆる価値を超越しているものには尊厳がある。」

引用・参照:マルクス・ガブリエル 2019『「私」は脳ではない』講談社選書メチエ p326

「尊厳はあらゆる価値を超越する。」ハッとする指摘です。 

 人間の尊厳とは他の価値と比較することのできる相対的な価値ではなく、あらゆる価値を超越する不可侵のもの至高のものです。そして人間の尊厳は、人間のさまざまな権利の土台なのだと思います。

2.尊厳への攻撃は悪

 マルクス・ガブリエルは尊厳について次のようにも指摘しています。 

「尊厳とはまさに、他者の内に人間性を認めること。」

引用:マルクス・ガブリエル 2022「わかりあえない他者と生きる」PHP新書 P48

 尊厳が他者に人間性を認めることだとしたら、尊厳を蔑ろにした介護というのは、当事者(お年寄り)を人間として認めていないということで、非人間的行為ということになります。

 そして、マルクス・ガブリエルは尊厳を無視すること、尊厳への攻撃を「悪」としています。 

「尊厳への攻撃は悪です。・・・悪とは誰かを利用するために相手の尊厳を無視することです。他者の尊厳を軽視するときには、相手を利用する動機があるのです。」

引用:マルクス・ガブリエル 2022「わかりあえない他者と生きる」PHP新書 P49,50

 ある介護施設で当事者の尊厳を蔑ろにする、軽視するような状況があるとすれば、それは入居者たちを利用して金儲けしようとする非人間的な施設ということでしょう。そしてその施設は「悪」であり、「悪徳施設」ということになってしまいます。 

「悪」を避け人間の尊厳を守るとは具体的にはどういうことなのでしょうか。ただ、人間の尊厳は大切だと心の中で思っていれば済むことではないでしょう。
 多くの人は、人間の尊厳を守るのは当たり前だと思うでしょうが、その思いに具体性を持たせることができるかが、問題なのでしょう。 

3.尊厳と文化

 人間の尊厳をないがしろにする介護施設などあるわけがないと思うかもしれません。でも、そうでもない厳しい現実があることを市民は知る必要があるのだと思います。
 人間の尊厳を守る介護施設とは、三食食べられ、週二回入浴でき、排泄介助をしてもらい、職員が優しそうな物腰で、優しい声がけがあればそれでOKというわけではないような気がします。 

(1)行為とは

 マルクス・ガブリエルは介護行為と言う場合の「行為」は自然の出来事と区別されるとしています。つまり、身体の生理学的な自然の出来事は、目的をまったく考慮しなくても完全に理解できるですが、行為の理解には目的の理解が不可欠だというのです。
 例えば、排泄は、単なる生体の一つの機能として理解できます。しかし、排泄「行為」には、失禁して恥をかきたくないとか、誰にも見られないようにしたいとか等々の人間的な目的があります。
 介護は、生理学的機能としての排泄を手助けするのではなく、排泄「行為」の手助けをするものと言えそうです。 

(2)文化には目的がある

 文明・文化は、自分の身体にまつわる自然的な生理的な出来事を隠したり排除したり、あるいは少なくとも美化したりするという目的があるといいます。例えば、爪や髪を切り、服を着て、鍵のかかるトイレを創る等々・・・

(参照:マルクス・ガブリエル 2019『「私」は脳ではない』講談社選書メチエ p328)

 人間にふさわしい尊厳ある生、人間の尊厳には文化的な装いが不可欠なのです。
 ただ単に、排泄介助をすればよいのではありません。トイレにドアがあるのは他者の目にさらさせないためですが、排泄介助でこの配慮がされているのかが大切なのです。
 また、爪をきちんと切って綺麗にしているか、髪はかされているか、TPO[2](時、所、場合)に合わせた服を着ているか等々、介護は人間の尊厳に直結した行為なのだと思います。 

 人間の尊厳とは他の価値と比較される相対的なものではなく、不可侵のものであること。そして、人間の尊厳を守る介護とは人間の生理的な事柄への対応ではなく、人間的な「行為」への応答、つまり、人間の文化的な行為、営みを確保することなのだと思います。

4.ガザGazaのジェノサイドは「尊厳」で防げない

⑴ 人権・尊厳概念の無力性

 現在進行形のイスラエルによるパレスチナ自治区ガザ(Gaza)地区でのジェノサイド(genocide:大量虐殺)をみると人間の「尊厳」という概念も虚しく響いてしまいます。

 朱喜哲ちゅひちょるさんはアメリカの哲学者、リチャード・ローティの旧ユーゴスラビアで起こったボスニア紛争(1992年~1995年)におけるジェノサイドに関しての講演「人権、理性、感情」でのローティの次の言葉を紹介しております。

「・・・人権という概念は紛争の抑止や解決に役に立っていない・・・」

引用:朱喜哲 2024「偶然性・アイロニー・連帯」100分de名著 p75

 人権という言葉を人間の尊厳と読み替えることも可能でしょう。人権や人間の尊厳という概念は役に立たない。これは、どういうことなのでしょうか。

 『セルビア人の殺人者たちや強姦者たちには、自分たちが人権を侵しているいう意識がないということです。彼らはそれを自分たちと同じ人間にではなく、「ムスリム人」に対して行っているのですから。彼らは非人間的なことをしているわけではなく、ただ本当の人間とにせの人間とを区別しているだけなのです。』

引用:朱喜哲 2024「偶然性・アイロニー・連帯」100分de名著 p75

(2)「われわれ/やつら」の線引き

 
『人間に本質というものがあるとすれば、それを持っていない相手は人間ではないということになり、「われわれ」と「やつら」のあいだに線引きがされてしまいます。』

引用:朱喜哲 2024「偶然性・アイロニー・連帯」100分de名著 p76

 介護施設で「われわれ」というとき、入居者はその「われわれ」に含まれているのでしょうか?
 「われわれ」には含まれていないような気がします。

 ローティは文化政治という概念を提唱していますが、日本の介護の世界でも2004年に「痴呆」を「認知症」と言葉への言い換えを求める報告が厚生労働省でまとめられました。今は介護の現場では、認知症ではなく、少し短縮して侮蔑的に「ニンチ」という言葉で表現することも多いと思います。
 認知症及び障害を持った者たちが「われわれ」側ではなく「やつら」側である限り、人間の尊厳は成立しないのだと思うのです。

 尊厳を守る介護にとって必要なのはローティのいう「感情教育」なのかもしれませんね。もっと、情緒に訴えることが必要なのかもしれません。

感情教育とは、物語や会話を通じて共感可能な対象を広げていくことを指す。感情教育は他者への共感、とりわけ他者の痛みを我がことのように感じ、それゆえ他者への残酷さを回避すべきという感情的な紐帯を育む。

引用:朱喜哲 2024 「人類の会話のための哲学」よはく舎 p235

 入居者の「尊厳」を守るために、介護教育の中に、感情教育を取り入れていく必要があるのだと思います。


[1] イマヌエル・カント(Immanuel Kant:1724年4月22日 ~ 1804年2月12日・プロイセン(ドイツ)の哲学者

[2] TPOとはTime(時間)、Place(場所)、Occasion, Opportunity(場合・機会)の略で、「時と場所、場合に応じた方法・態度・服装等の使い分け」を意味する。


 虐待について記した他のnoteも併せてご笑覧願います。


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