バイデン大統領の「外国人嫌悪(xenophobia)の国」発言
バイデン大統領が5月1日、ワシントンでの演説で日本を「外国人嫌悪(xenophobic)の国」と呼んだということが多くのメディアで取り上げられていましたが、この件に関して、国際政治学者の六辻彰二さんの記事がとても参考になりました。
1.移民でも移民でないという姿勢
六辻彰二さんは、バイデン発言のうち、「日本が移民受け入れに消極的」という部分は否定の余地がないといいます。
日本には技能実習生、特定技能外国人など多くの方々が労働者として働いていますが、政府はの公式見解では、彼ら・彼女らは移民ではないとしています。
しかし、国際移住機関(IOM)の定義では、移民とは・・・
本人の
(1)法的地位
(2)移動が自発的か非自発的か
(3)移動の理由
(4)滞在期間
に関わらず、本来の居住国を離れて、国境を超えた、あるいは一国内で移動している、あるいは移動した、あらゆる人を指すのだそうです。
六辻彰二さんは、「これに照らせば、日本の外国人労働者のほとんどは立派な移民だ。」と断じています。
日本政府の論理で行けば、移民の権利は保障するけれど、技能実習生や特定技能外国人は移民ではないから、権利の保障はしなくても良い、ということになってしまいます。現在、国会で審議中の育成就労も移民ではないと言い張るのでしょうね。
2.xenophobia
六辻彰二さんは「バイデン発言の最大の問題は“xenophobia”という語を不用意に用いたことだ。」と指摘しています。
六辻彰二さんは、日本は、まだまだ、移民が少ないので、欧米ほど恐怖や警戒、憎悪、軽蔑の感情を含んだxenophobiaは、それほど蔓延しているわけではないとみているようです。
3.インターセクショナリティ(交差性)
さて、失言の多いバイデン大統領のxenophobia発言はさておいて、日本人の移民に対する認識、感情について、もう一度、しっかりと内省してみることも必要だろうと思います。
六辻彰二さんも、次のように指摘しています。
日本は、アウェイで生きている移民とホームの日本人の間に「外人ー日本人」という属性に基づく「力の勾配」があることに鈍感なような気がしています。
社会には社会経済的属性に基づいたさまざまな関係性が併存しています。「若者-年寄り」、「男性-女性」、「管理職-一般職」、「生産労働者-再生産労働者」「日本人労働者-外国人労働者」などなど、人は色々な属性を併せもっているのです。
朱喜哲さんは、社会には、さまざまな属性を軸として、それぞれの軸に「力」の勾配があり、それらの軸が交差する「インターセクショナリティ(intersectionality:交差性)」があるのだと指摘しています。
「日本人-外国人」も、このインターセクショナリティを構成する一つの軸であり、日本人=ホーム、外国人=アウェイ、という力の勾配があるのです。力の勾配とは、優位な者の優位性、抑圧性のことです。
私は、日本人の、この「力の勾配」についての鈍感さが 「xenophobia」 につながって行かないことを願っています。