#本 『もしも本が』
もしも本が
わたしは本がすき。
すきな本をみつけると、わたしはそれをだきしめる。
もしも本がわたしをだきしめたら、どんなだろう?
少し怖いかもしれない。それがゾクゾクするような本なら。
わたしは本を持って学校にゆく。
もしも本がわたしを学校に連れて行ってるだけなんだとしたら?
そうなのかもしれない。だってわたしはこの本を見て話かけて来た子と、ともだちになったのだもの。
学校はおともだちがいなかったら、そんなに面白いところじゃないのよね。
わたしはねむるときに本をベッドにもって行く。そして眠ってしまうまで読んでいるの。
もしもわたしがいつまでもねむれないでいて、本がわたしよりも先にねむってしまうとしたら?
わたしは本の寝顔を見ながら子守唄を歌ってあげるのにな。いつもわたしが先にねむってしまうの。
悲しいときに、わたしは本を持って、だれもいないところに行くの。
もしも本が悲しくて、ひとりになりたい時があったとしたら?
わたしは本をひとりにしてあげる。悲しいのがうすくなってページを開いても痛くない時が来るまで、開かないでそっと抱えて、ただそばにいてあげるよ。
わたしはおもう。
いつかわたしは本をかく。
もしも本がわたしを書いたのだとしたら?
その本がなかったらわたしはここにいないことになる。
だとしたら、本はわたしのお母さん?いいえ、お母さんは本じゃないもの。
お母さんは口を開くたびに、ちがうことを言うけど、本はそんなことはないもの。
その本はわたしとお母さんと、両方を書いたんだと思う。
このノートは恩田好子個展『タグ付きの物語』と連動しています。
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おひねりをもらって暮らす夢は遠く、自己投資という名のハイリスクローリターンの”投資”に突入。なんなんだこの浮遊感。読んでいただくことが元気の素です。よろしくお願いいたします。