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乙巳のはじまり

大晦日から正月三賀日が、恒例でご奉奏もあって忙しく、
そのおつとめをおさめたら、高熱を発し頭痛と悪寒、目眩で動けなくなって、今に至ります。
三日目はひとりで任されたので、寒い中長時間屋外で歌ったり演奏したりで、冷えと疲れと、燃え尽きが起こったようです。
有難いおつとめと疲労ではありますが、御神前のおつとめはかなり消耗するので…

巫女舞・浦安
紅葉越しが美しい🍁

今年は乙巳の年。
…そういえばそうだったと思ったのですが、
この年回りは、あの大化の改新のはじまりと同じなのですね。
“乙巳の変”

それ以後の歴史でも、この年回りの時は、その後の時代を変える革新的な大きな出来事があったと、
ご奉奏先の禰宜様が、新年のご挨拶で、お話しておられました。

今年は、何かにおもねることなく、自分自身の心より望むことのみをおこなっていきたい。
これを言ったら確実に嫌われるだろうからと、意にそぐわないことも望まれるままにやってきたものの、
それはこれまですべてうまくいかなかった。
やっていても、笑顔になれない。

和歌を知りたい、日本の大和の真髄を知りたい…というかたは、和歌や日本の霊力を、魔法のように夢想しがちで、
意味なんてわからなくてもいい、わからないから尊いと、
最初から直感だけで、自分や、自分が信奉するスピリチュアル系の話を盲信するだけ。
『古事記』『日本書紀』はウソごとだから信じない…なんて見向きもしないし、
大和朝廷の神はニセモノで真の神は隠され封印され、今こそ復活の時。そんな歴史の上の今の世はあるべき姿じゃない…なんて、別次元を現実に引き寄せようとばかりしがちだけれど、

せめて知らないままに否定するのではなく、基本的な部分だけでも理解してから、批判すべきと思う。
そもそも、おそらくは“乙巳の変”から改革された土台により、今の時代に至る命脈があるのだから、
これまでの日本のすべてを否定したら、あなたも消えますよと思う。

私は、奏でている“真琴”をスピリチュアルな人が多く持つことと、和歌を学んできて、ご奉納舞台で即興で、目を閉じた瞑想のような姿で歌うことから、
神の声を聞き、神の声を和歌にし、神を身におろして、神がかりで歌っていると思われることがよくあるのですが、
そのため、一足飛びに「神様の声をおろすことを教えてほしい」「魔法の呪文としての和歌を教えてくれるのでは」と勘違いされることが多く、
ワークショップなどでは、それを求める人が集まります。

“前世に巫女であった記憶が甦れば、自分は和歌を言霊の呪術として駆使し、世を変え人に信奉される、かつての斎王のようになれるはず!そのきっかけを得たい”
みたいな夢想をしていらしたかたもいました。

けれど、真琴は利便と相性で選んだ音具であり、私の即興和歌は神がかりではなく、それなりに長く学び探究してきたから歌えるもので、目を閉じているのは集中しやすいから。
和歌も言霊も、流行りの神代文字などの観点とはまったく関わりません。

ワークショップでも、基本的に、歴史と国文学の観点から和歌や記紀の理解の仕方を話すので、
なんだつまらない…と、根気よく聞く人も少なく、
たいがい連続して開催しても、2度目の集客が望めなくて、何度も失望しました。

私もスピリチュアルは否定しないし、自分なりのとらえかたの上で、探究しています。
でも今の、都合のよい自称スピには、絶望すら覚えます。

今年は、予定そのものは少ないものの、
スピリチュアルとも思想とも関わらない、史学・国文学に親しむための場より、ひとつお話をいただいています。

こんなふうに、現行スピを否定していると、話の一部分のみかじった誰かから勘違いされて、誹謗中傷されることが恐ろしく(かつてそれで危険な目に遭ったことがあるので…)、
スピでもなんでも、望まれるまま話してきたけれど、

どのみち受け入れられないなら、何かの思想に色づけされた妄信を信奉する場ではなく、
真の日本の心根の美しさ、基本的な歴史と表現を知ろうとする場でのみ話したい。
それを理解した上で、そこから、直感的スピリチュアルの柱が立つのだと思うのです。

磐座も御神木も、どっしりとそこに堅固に不動に鎮座し正しく祀るからこそ、正しき神がおりるのですから。

和歌にも、文学表現としても、儀礼としても、いくつもの流儀があり、ひとくくりにはできない奥深さがあります。
和歌は呪文ではない。
けれども呪的に作用する作法もあります。
スピリチュアルでいう言霊と、和歌の言霊は、根本的に異なります。

私は、集団を先導する宗教的思考を伝えたいわけではない。

今年からは、自分自身の革新として、
伝えたいことを、伝えたい形で、
表していくことを目指します。

どのみち、ウケ狙いで虚飾を話せるほど器用ではないのだもの。

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