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言葉で伝わらない心

〜思ふこと いはでそただに やみぬべき 我とひとしき 人しなければ〜
『伊勢物語』、昔男・在原業平の歌です。

“いはで思ふぞ 言ふにまされる”
とは、『大和物語』にある言葉。

松尾芭蕉も、最期に近い頃に、
〜物いへば 唇寒し 秋の風〜
と吟じています。

中国の任侠ドラマ『陳情令』の“陳情”は、主人公の横笛の名ですが、
陳情”とは、言葉にしきれない想いのことだそうです。

まぁ、当然のことであります。
真に大切なことは、本当には言葉に表せない。
どれだけ言葉を尽くしても、伝えきれないことはある。
自分と同じ心の人はいないのだから、しかたがない。
それらしく伝わったとしても、そのままではない。

要するに、いくら口に出して伝えようとしても、真意を伝えることはできない。
むしろ語らないことこそ、百万言に勝るということであるようです。

かつての公家文化では、すべてを話しきるのは品がないことで、
途中でぼかすように言葉を立ち消えさせて、そこはかとなく伝える、
受け取る方も理解するというのが、よろしいという風があったそうです。

かと思えば、武家文化や軍国の時代には、ハッキリとものを言え!と怒鳴られる風潮もあった感があります。ただし言い過ぎるとそれもくどい。
それでいて、上の言うことは、言わずとも察せよと。
私が学校にいた時にも、親にも、そう言われてよく怒られました。

簡略簡潔に、正しく意思疎通を目指すのがよいということ。
最も難しいスキルかもしれません。
言葉なく伝えるというのは、さらに難しい。

私は、話して伝えるのが得意な方ではなく、口で言うことに、力はまるでないらしい。
ある意味、伝えよう、わかってもらおうと、言葉を尽くせば尽くすほど、
誤解や曲解をされ、自分が虚しくなっていきます。

私が和歌に惹かれたのは、言葉数は少なくとも、言葉以上に心が伝わる叙情があったからでした。
喜怒哀楽を直接語らずとも、花鳥風月により、思いをこめられる。
人によって違う受取り方があっても、伝わる何かがあればいい。

〜誰か謂つし 水心なしと
 濃艶臨んで波色を變す
 誰か謂つし 花ものいはずと
 輕漾激して 影脣を動かす〜
          『和漢朗詠集』

心のない、言葉もないと人が思う、
水も花も、山河草木、石や岩も、
その動きや働きで、しっかりと意思を表している……

物語や、文章も、
私を直接知らなくとも、むしろ「私」という個人を越えて、語りかけることができます。
読んでもらうというのは縁ではありますが、
同じ言葉を尽くすなら、書いたほうが、私には心地よいようです。

人と会うと、緊張もあって、無駄に口数が多くなってしまいますが、
人嫌いだと誤解されない程度に、しゃべりすぎないほうがいいなと、
ある程度の年齢になってくると、話して伝わらないもどかしさを経て、わかるようになってくるように思います。

私が誰かをわかりきることができないように、
誰も私をわかり得ない。
親子でも、兄弟でも、恋人でも、夫婦でも。

それでも、信頼し合える真情のみ伝われば、
人との絆は築いていけるのだろうと、信じたく思います。

海の底の、貝の懐中に眠る、白珠のように、
誰の心も、人知れず秘められながら、
おのれの内でのみ、輝いている。

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