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『枕草子』朗詠 第二十段「中宮を囲む宮中の思い出」 五/五・」かの宣耀殿の女御の教養」

定子中宮が語る、村上天皇の御宇の逸話。

以下、話の大略です。

***
「村上天皇の御時(一条帝の四代前・一条帝の祖父)、宣耀殿の女御と申された、小一条の左大臣殿の御娘・芳子様が、まだ幼い姫君であった時、父大臣より教えられたことには、
「第一に、書の手蹟をよく習いなされ。次に琴(きん)の御琴を他の人よりさらに勝りて弾くように心がけよ。そして、古今和歌集の歌二十巻を、すべてそらで暗誦できるよう、それらを御学問となさるように」
と申されていたと、
そのことを村上の帝がお聞きなされていたそうで、女御の成果を試そうとなされたのでしょう。
さる御物忌でおこもりになられていた日、古今和歌集をお持ちになって女御のもとへお渡りになり、女御との間を御几帳で隔てなさったので、
女御が、『いつもと違っていておかしい』とお思いになっていたところ、
帝は古今の草子を開かれ、
『いつの月、何の時に、誰が読んだ歌であるか、答えよ』
と、これより問う旨を仰せになりました。
女御は『ああ、そういうことなのね』と心得なさり、興深くお思いになったものの、『誤って覚えていたり、忘れているところもあったら、どうしましょう』と、心もとなくもお思いになったことでしょう。
和歌の道に詳しい人を二三人ほど召し出し、正否の数を碁石で示しなさるなど、真剣なご様子なのも、どれほど興深かったことか。今の私(定子中宮)には、その時におそばにおられた人々が羨ましく思われます。
帝が問わせたまえば、女御は、得意げに末の句まで言い尽くすのではなく控えめながら、すべて、露ほども間違うことはありませんでした。
そのため帝としては『なんとか少しでも間違いを見つけてやらなければ、やめられぬ』と意地になられ、そのまま古今集も半ば十巻まで到達してしまいました。
相当な長丁場です。帝は、一旦は根負けし、草子に栞をはさんで、お眠りになられましたが、だいぶ経ってからお起きになり、
『やはりこれは、勝ち負けなく終わるのはよろしくない。明日になったら、それまでに残りの十巻を、女御が確かめてしまうかもしれない。今日のうちに勝負を定めよう』
と、再び夜の灯りをともされて、夜がふけるまで読ませなされたのです。
けれど、女御はとうとう負けることはなかったのでした。
帝がお戻りになられてから、これらのことを、女御の父大臣にお知らせ申されたので、父大臣は、帝と女御のご様子を大変心配なさって、あちこちの社寺に御誦経などをなさり、かなたこなたを向いて、念じ暮らしなさったそうです。
もの好きとは申せ、なんともいえぬお話ですね」
と、定子中宮の語りなさることを、一条の主上も感じ入りなさって、
「すべて覚えている女御もすごいが、二十巻を読み通す祖父帝もすごいな。私などは、三巻四巻でさえどうかと思うが」
と仰せになられます。
「昔は、どのような立場の者でも、みな面白いことをなさったもの。近ごろは、こんな話を聞くことはありませんね」
などと、主上と中宮様の御前に仕える人々、上臈の女房でこのような尊い場を許されている人たちも参り、口々にそのように言い合っている様子は、
誠に、なにひとつ心にかかることもなく、めでたき限りと思ったものです。
***

この昔話を、
宣耀殿の女御の記憶力と才気を尊敬しているのか、
意地になって、一昼夜ほぼ不休で『古今和歌集』全巻を読み通させた村上天皇に感心しているのか、
それとも、帝も女御もよくもまぁ…と、半ばあきれているのか。
中宮の語りを、興がって面白く聞いている、清少納言はじめ上つかたの様子が楽しそうな場面。
この時代においても、教科書的な和歌集を全暗記というのは、かなりハードルが高かったことが伺えます。

清少納言がまだ中宮仕え間もない頃だったこともあり、定子中宮と中関白家が全盛の、
なにも心憂うこともない、なんとも平和で穏やかで心なごやかな春の日の語らいを懐かしむ、最後の一文に、
ほんの少し、ほんのりしてしまいます。

さて、ここで語られる村上天皇は、詩歌管弦に秀でており、この御代には有名な楽人や、歌合せの記録が見られます。
それらは天皇にとり、単に趣味志向ではなく、帝王学として徳を示す重要な心得で、音楽を知ることは治世のために重要とされていました。

第一に和漢籍等の学問、第二に管弦、第三に和歌。

鑑賞だけではなく、帝自身がすべての楽器に通じていますが、
特に村上天皇の頃までは糸ものの琴が好まれ、一条天皇以降は横笛が好まれる傾向にあったそうです。

天皇の妃となるべく育てられる貴族女性も、それに準じたとみられ、
宣耀殿の女御についての『枕草子』に書かれた、
「一つには、御手をならひたまへ。次には、琴(きん)の御ことを、人よりことに弾きまさらむとおぼせ。さては、古今の歌廿巻を、みなうかべさせたまふを、御学問にはせさせたまへ」
と父大臣から教えられたこの部分は、宮廷女性の心得として、よく目にします。

書・楽・和歌は、鑑賞眼を身につけると共に、すべて、自身でも心得て巧みであることが必須。
けれどもあまりに教養の高さを自尊心とし、賢こげだと、女性としての愛嬌に欠ける。
愛されるべき女性の資質が最も問われる部分で、定子中宮や、『源氏物語』の藤壺や紫の上などに、理想が表されている感があります。

私は、琴(きん)を讃美する文献の中で、この話が、ちょっとだけ琴に触れているだけながら、好きです。
村上天皇の後宮には、琴(きん)の名手である斎宮女御・徽子女王がおられ、その技能は、女御の父である村上帝の異母兄である父親王から伝授されたもので、「徽」は、琴(きん)の音階を示すしるしであることからも、それを父から名づけられた斎宮女御は、ひとしお琴に対する強い思い入れがあったと思われ、
その音色は、村上天皇が聴き惚れるほどの妙音だったそうです。
おそらく、村上天皇ご自身のみならず、その御代の後宮においては、琴(きん)に対する強い愛好もあって、
天皇の女御となるべく育てられた宣耀殿の女御も、幼きより、琴・和歌の習得に、特に心を尽くすように教育されたとみられ、
才走りながらも、心ばえの控えめで美しい人柄もあって、村上天皇に寵愛されたと伝えられます。

おそらく、宣耀殿の女御は、平安期の高貴な女性たちにとって、鑑とすべき理想の女性のひとりとして伝えられており、
この、古今和歌集すべてを、帝の前での長時間の集中と、一言一句誤らずに暗誦したという話は、
女御といい帝といい、とても真似できない、超人的な話として、伝説的に語られていたのではないでしょうか。

ちなみに、村上天皇は、琴(きん)の琴をお好みでしたが、琴(きん)は習得が難しく、一条天皇の頃にはほぼ途絶えていて、
一条朝においては、村上天皇の御代は、帝も女御も琴(きん)の名手の時代としても、伝説的だったのかもしれません。

一条天皇に仕えていた紫式部は、琴(きん)について、『源氏物語』で源氏に語らせています。
録音が残る時代ではないので、素晴らしい音色については、物語の中、浮世離れした世界に仮託するくらいの伝承だったのかと想像します。


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