夢の中で、「日々旅にして旅を栖とす」
私は、眠っている時に見る夢について、詳細をおぼえていることが少ない。
ストーリーがあるようなないような、漠然とした夢ばかりだと思う。
ただひとつ、覚えているのは、
夢の中では、必ず私は、旅をしていること。
どんなシチュエーションであっても、必ず、どこかを旅している場面になっている。
旅そのものが主題ではなくても、
日常に暮らしている場面ではなくて、
それがどこかはわからないながら、移動している途中や、どこかの宿にいることになっている。
誰かと話していても、見知らぬ人だし、
家族旅行らしくても、家族は出てこない。
電車やバスで車窓を眺めていたり、車に乗せてもらったり、たいていはひとりで、自分に語りかけるように話している。
たまに、この世のものとは思えない、
すさまじい絶景や、奇跡のような光景を目のあたりにして、ひたすら感動し、その感動は目覚めてからも余韻として残り続けている。
そこまで私は、旅を常として望んでいるのか…
子供の時から親の過干渉や、学校でも周囲と合わせなくてはならず、流されるばかりで、
十代の頃は、ひとりでは何もできないし、何も極められず、どこにも行けないと思いこんでいたが、
二十歳になり、偶然にひとり旅に目覚めてからは、誰の干渉もなく、ひとりでなら何でもできることに気づいてしまった。
海外ではなく、惹かれるのは日本。
そして、好きになったら何度でも訪れたくなる。
学生から文学研究の世界に入ったことで、古代古典の和歌や物語の舞台となった、関西の古地をフィールドワークするようになり、
京都でも奈良でも、観光地ではない、人に話しても誰も知らない、なんのゆかりも残されていない、史跡とも言えない史跡ばかりを歩いてきた。
お金も余裕もなくても、なんとなく、ひとり旅の機会には恵まれてきたと思う。
自動車の運転もできないので、
交通機関と徒歩のみで、なんにもない、たぶん私以外には感じられるもののない土地を旅する。
夜行バス、路線バス、時には自転車で、早朝から深夜まで。
あちこち行きまわるのではなく、一地域一箇所を、体全体から心の奥底まで、その土地の風土に染まりきるほどに留まり、時を忘れて味わい尽くす。
買い物もグルメもいらない。
ただ、日常を離れ、ひとりで、たった一首の和歌に見えるだけの土地を訪れて、その世界の、時空を超えた思索にひたり、
自分でも歌を読んだり、物語を描き出すのが、何よりも至福だった。
叶うなら、このような思索の旅を、生涯続け、
それをなんらかの形で、生業に活かしたい…それが宿願だった。
それがそのまま、夜の夢にあらわれるのだろうか。
夢の中では、旅をすることそのもの、感じることを語ることそのもの、
そしてその土地の波動を、音として奏で表すことそのものが、糧となっていることが多い。
現実として、研究者だった頃から、旅をしなければ、インスピレーションを得られなかったし、
短歌同人の頃も、旅をしていなければ、歌は読めなかった。
旅が原動力。エネルギーとなる。
旅ができず倦んでいると、心も魂も枯れ果てたように空虚になる。
贅沢は言わない。
旅をすみかとして、旅に生きていきたい。
松尾芭蕉のいう、
「そヾろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取もの手につかず」
の境地そのままに、渇望す…
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