朗詠に、『枕草子』を選んだ理由
お盆が明けた今夜は、ようやく熱帯夜も峠を越え、涼しげでよい風が吹いています。
「夏は夜」……『枕草子』でいう夏とは暦も違うし、風情も違い、
現代の今は晩夏ですでに秋だけれど、
エアコンで頼らず、窓を開けて涼風の夜を味えるこの時期、「夏は夜」の言葉を思い出します。
月の頃はさらなり。
『枕草子』朗詠に至る経緯
王朝古典文学を朗詠し、動画で記録しておこうと思い立った時、
『竹取物語』『伊勢物語』などの物語も考えましたが、
随筆の語り口で読みやすいのではと、『枕草子』を選んでみました。
『源氏物語』の冒頭のみを朗詠し、心地よさに感嘆したこともありましたが、
この長編小説を、抜粋ではなく、最初から続けていこうと思ったら、
短くても十年、下手すると一生かけても終わらないのではとすら思うくらい、果てしなく思えたので、
ほどほどに長くて、自分でも改めて学び直せる素材として、
『枕草子』がいいかなと。
私は古代文学が専門だけれど、王朝・平安のほうは範疇外で、
検索のために全部を流し読みしたことはあったけれど、
『枕草子』の内容を、最初からちゃんと味わって読んだことがあるかというと、どうだろう…と、今さら思ったのが、理由のひとつ。
また、うちにはテレビがないのでドラマは観ていませんが、
放送後にネットで関連記事が出たのを読む程度に、今年の大河ドラマの流れは把握しています。
一条天皇の御代、定子中宮のサロンの華やかさは、『枕草子』からも知られるものの、内実、後ろ盾をなくし孤立無援となってからの定子中宮と、そこに仕える清少納言たちの境遇は、つらく苦しいものだったことは確か。
清少納言も、決して、脳天気で高慢な毒舌お局でいられたはずもない。
それでも、明るく楽しげだった、若い帝と中宮を囲む宮廷サロンや、当時ときめいていた風俗や風物など様々を、感性で軽快に書き記しているのが『枕草子』。
そういう背景を鑑みつつ、明るい方へ意識を向ける清少納言の目線で、改めて読み直して見るのも、意義深いのではないかと思ったのも、理由のひとつです。
しかし、思い立ったのが、最初にアップする一ヶ月くらい前で、
その前に、かつて研究者時代に完備していた書籍資料などを、直接の専門以外はすべて処分せねばならない時期があったので、
平安期のものが、手もとに全然ありませんでした。
しかたなかったとはいえ、泣きました、本気で。
そこでまず、すぐに入手できた電子書籍で、講談社文庫版の『枕草子』を参照し、
その後、アップ前に、比較的研究資料的な、新潮古典文学集成の『枕草子』を改めて入手。今はこれ以上、本を増やせない。
古典を学ぶ人ならわかると思いますが、現存する古典文学は、執筆当時の原本がありません。
特にこの時代以降、何度も書き写され、さらにそれが伝えられて書き写されてが繰り返されたので、
どんなに正確に書き写されても、人間のやることですから、誤写や読み間違いでの写し間違え、書き落としなども多く、伝本校本により、文面が異なりますし、翻刻した人の解釈によっても読みに違いがあります。
講談社文庫と、新潮集成は、校本からも、かなり違っていました。
私としては、読み馴染みのある文面だった集成のほうを最終的に採用しましたが、一応、ふたつの違いを確認しつつだったので、実際に音読に入るまでに時を要しました。
さすがに、ない文面をあるほうに加えたり、こちらの好みで入れ替えたりはしていません。基本的に集成に従っています。
(表題の副題のみ、変えることがあります)
その後に、動画記録にするため、
基本、長い段は、十分前後くらいまでの長さで区切り、
なるべく手間を最低限にするよう、編集の体裁は定型化し、
無理なく、コンスタントに続けていけるように、準備しました。
仕事やイベントごとで忙しい時や、声の調子が悪い時、体調不良の時を除き、できるだけ毎日更新できるように。
誰に強制されるのではなく、自分の目標として。
『枕草子』も、なかなかに長いので、根気が要るし、トラブルなく続けられたとしても、一年はかかるかしら。
『枕草子』で唯一、残念だったのは、和歌がほぼないこと。
和歌物語とされる『伊勢物語』も最初から朗詠してみたい物語なので、時々、そちらも並行してみるかもしれません。
『紫式部日記』も、並行してみたら、興味深いかもと考えています。
初めての試みですが、続けられる限り、続けたい。
古典を学ぶのではなく、感じるために
私は、即興で和歌・短歌を創作し、眞琴を弾きながら歌う活動をしています。
もともと古代文学と和歌を研究していたことと、自分も短歌の活動をしていたこと、能楽を長くやっていたことから、
現代の言葉ではなく、古語で即興するのが自然になっており、
それが高じて「大和言葉をあらわす」ことに特化した歌を読み、
それを調べとして歌うのに最適で、古き良き伝統の琴の音色に近い、そして古跡などの旅にも持ち歩きやすい、眞琴という楽器を選びました。
たいていはご奉納などで、十五分前後の短時間ですが、
時に、カフェコンサートなどで、そこそこ長時間歌うこともあり、
そういう際には、『萬葉集』から選んだ題詠歌を物語にして語ったり、
『竹取物語』『伊勢物語』などから抜粋した部分を、読みながら歌うこともありました。
それにおいて、
「古典だから、聴いただけでは、何を言っているかの理解はできないけれど、今の言葉とは違って、意味がわからなくても言葉の調子が心地いい。むしろ、意味を理解しようとしないで、“音楽”のように聴けるから、気持ちいい。眠くなっちゃう」
というような好評をいただいていて、
「眠くなる」というのは、つまらなくて飽きるというのではなく、
能楽鑑賞でよく言われることですが、
安心して身を任せるような、心地よい異次元境地に浸れるということで、
実に光栄な評価なのです。
自分でも、朗詠していて心地いいし、普通に読むより、歌ったほうが読みやすく、
聴いているお客様も、歌っている私さえも、半ば瞑想状態で恍惚となるような場になっていました。
そのうち、私の即興和歌の歌と琴に興味を持たれ、でも何を言っているかまではわからないからわかるようになりたい、そして、
「自分も日本の古語を理解し、表現に使えるようになりたい」というかたが、数人いらっしゃったことから、
古典と和歌に親しむためのワークショップを開催したことも、何度かあります。
古語に慣れるには、多くその言葉に触れ、接すること。でも、ひとりで古典を読んでいても、わからないし続かないからという話が多かったため、
古典講座のようにただ話すだけではなく、歌うことで耳馴染みをよくしようと、原文を歌いつつ、自分で物語調にした現代語訳を朗読する形にしていました。
けれど、それでも一回や二回、ちょっと聞いただけですぐにわかるわけがなく、一朝一夕では難しいとなると、たいていのかたは続かなくなります。
(近年、“言霊”という概念が多様に独り歩きして、正しい理解もなく、何かの魔法や神秘能力のように感じ、簡単に会得したいかたが多いように思います。)
私も話術は得意な方ではないし、
真を伝えるというのは難しい。
受けとめ側も、あえて理解しようとすると、難しく感じられてしまう。
そもそも私も、古典を授業で勉強するのが好きだったわけではなく、
単純に好きで惹かれたから、その世界に入り、
長い探究と経験の末に、意識せぬうちに身について、今があるようなものでした。
英会話がそうであるように、文法や単語を覚えるより、実際に多く実践し身に馴染ませることで身につくもので、それなりの時間努力も根気も要るし、なにより、気がついたらできていたというくらい、好きで興味を継続しているのが一番だと思います。
即席で、ショートカットで覚えられるものではないし、
そんな方法を伝えるすべは、私にはない。
私には、ただ今の自分なりに表現することしかできない気もする。
そう逡巡して、たどり着いたのが、
伝える・教える、そして学ぶ・勉強する、というのではなく、
ただ感じられればいいのでは。
ということでした。
最初に演奏会で、古典朗詠を喜んでもらえた時のように、
ただ、“音”として、半分眠りながらでも、聴き流すだけで、充分に意義があるのではないかと。
その第一段階では、現代語訳的な物語を入れるのは、むしろ邪魔になる。
古語とはいえ日本語だから、意味がわからないともどかしいかもしれないけれど、
海外の民族音楽や、洋楽を、意味はともかく印象を好み、愛好して聴くのと同じこと。
必要があれば、求める人があれば、
解説も語訳も、語ることも伝えることもできますが、
それを最初の目的にする必要はない。そう思い切りました。
即興の調べに歌う
私がやっているのは即興であって、意図的に作曲や創作で、
調べを作って、歌っているのではありません。
全部、指任せで琴を弾いて、自然に調べになった言葉を歌っているだけです。
アカペラでは調べは流れてこない。
眞琴の自由奏でのみ、無意識のうちに言葉が歌になっています。
音律的に、そんなに多様なものではなく、だいたい、似たような旋律になっているし、言葉が違う以外は、代わり映えはありません。
表情豊かでもなく、単調といえます。
単調だから、鑑賞ではなく、ただ寝ながら、聴き流してもらえればいい。
聴いてくれる人が、どこかにいるなら、それだけが一番の幸せ。
いつもいつも、演奏の予定が入っているわけでもないので、
発現するために、自主的に何かを定期的におこなう、目的がほしいと思い、
場所も選ばず、誰が求めるのでなくても、
自分で課題とし、なるべく日々更新を目標として、
続けられることを。
それが、古典朗詠を思いつき、始めたきっかけであり、理由です。